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たかがアニメ、されどアニメ。

おそらく多くの方が、たかが「アニメ」に何を真剣になっているのかと、思われたのではないのでしょうか。

その判断は、ある意味で正しく、ある意味で間違っています。

こう言った判断は、「文化の本質」を理解しない人の発言に思います。

「文化の本質」とは、いったい何か。。。

「ヌーソロジー」では、これを「人間の外面(意識の奥行き)」と言います。

私の「言葉」では、これを「場の意識」の方向と言います。

どちらを使うかは、お好み次第です。

これを「高次元の方向(意識エネルギーの次元)」と行っても話は通じます。

「文化の本質」とは、「人間存在」の最高度の表現であり、民族や国家、そしてその大地が表現する、「真善美」そのものと言えそうです。

つまり「真善美」は、本質的な「価値や意味」を伴っており、二元的な「量」への変換が、困難な存在です。

極論すると、本質的な「価値や意味」には、二元的な「量」が一切存在せず、唯一これを感じ取るのは、「人の心」のみであると言うことです。

「文化の本質」には、宗教文化を含めて、人を命懸けにする一元的な「価値や意味」が、秘められているのです。

昨今は、これらの一元的な「価値や意味」の本質を見失い、二元的な「量の配合」と勘違いする風潮に溢れています。

さて、「文化の本質」の対極は何かと言いますと、「政治の本質」がそれに当たります。

「政治」と「文化」は、ある意味で、「関係の意識」と「場の意識」が、それぞれを担当する「二元次元」と、「二元次元を超えた方向」を意味します。

従って、「政治」には、ある種の知性や人間関係の葛藤はあっても、「高次元の方向」が、一切存在せず、「文化」が唯一、情動を伴って「高次元の方向」を指し示すのです。

日本の「マンガ」や「アニメ」には、その創作において、人を命懸けにする、一元的な「価値や意味」が、秘められているのです。

これを踏まえて考えた場合、先の『「人の持つ本質」とは。』においての「アニメとの意味共鳴」が、ある種の説得力を伴って感じられませんでしょうか。

全てのアニメ(マンガ)がとまでは言いませんが、ある種の境地に達した作家の中には、その本質力を反映したものが多くみられるのです。

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