『高次元「存在」へと脱自する「現存在」のあり方』とは。
おそらく多くの方が、これらの体験の解釈を、「こじつけ」とお考えと思いますが、私自身、その可能性を否定するつもりはありません。
もちろん「現実に起った出来事」に、嘘偽りはありませんし、この様な解釈が「もっとも筋が通る」と考えていることに間違いありません。
「幸せな結婚」と言う奇跡は本当に起こりましたし、スピ嫁と一人息子と共に安寧な日々を送らせてもらっています。
仮に『人生の暗黒期』の絶望の日々と比較すれば、今は「極楽に居る」様な状況なのです。
そして、「何故そうなったのか」、「何が起ったのか」、「何が起こり続けているのか」を自問自答しながら日々を過ごしているのです。
さて、「9次元存在(アクトゥリアン評議会)」の話題につきましては、この度は一切触れて来ませんでした。
その「存在」との明確な出会いは、『人生の覚醒期』以降の出来事です。
それはある時、偶然ネットで見掛けた、「ダニエルさんのチャネリングメッセージ」によるもので、その指摘と「私の人生」のあまりのシンクロ(意味共鳴)に感銘を受けたのが始まりでした。
ですがその片鱗は、『人生の光明期』から既にありました。
それは当時、電線の上からこちらを伺っていた、「番いの小鳥」に象徴されます。
ある日の朝、埼玉県北部の会社の独身寮から、徒歩で出勤する途中にそれは起こりました。
ふと電線を見上げると、2羽の番いを思わせる小鳥が寄り添うように、こちらを伺うかの様に見えていました。
そして、その内の一羽がくわえていた「巣作りに使うと思われる小枝」を、あろうことか、私の目の前にハラリと落としたのです。
『これはいったい何?、何かのメルヘンか何か?』、と思いましたが、私はダッシュで駆け寄って、それを拾ったのです。
直径が2mm弱、長さが7cm程のまさに巣作りにピッタリの「真直ぐな藁ひごの様な小枝」でした。
今考えると、少々キモイ行動ですが、その頃は気持ちが塞ぎ切っており、シャレではありませんが、「藁をもつかむ思い」でしたのでご容赦ください。
私はその小枝を一輪挿しに飾って新婚まで大切に保管していましたが、ある時、当時飼っていた猫(名前は、ルルちゃん)にズタズタにされてしまいました。
その事は、スピ嫁も良く知っています。
さて、ハイデガーに話を戻します。
ハイデガーは、超越の問題は時間性への問いであり、『「時間性」は「時間」の拡がりとして生起する「存在」へと脱自する現存在のあり方』と表現します。
つまり、現存在(人間)は、「時間」の拡がりとして生起した「永遠性の位置」を、「神聖なる者」として体験すると解釈されます。
その「場所(場)」で体験されるのは、荒唐無稽な出来事ではなく、現実の時空で成立する「喜びと偶然と奇跡」であると言う訳です。
そしてそれを「信仰」としてではなく、「現実」、つまり『「存在」とのコミュニケーション』として体験される、と理解されるのです。
ここでの脱自した現存在の「わたし」とは、「永遠性のわたし」、つまりは東洋の伝統で言う、「ほんとうのわたし」と酷似するのです。
それは、個人、否、人間全体の「心の奥底を超えて在る、存在の位置」であり、まさに「9次元存在」の在り方が、ピタリと当て嵌まるのです。
さらに「アルクトゥルス」の名前は、その「存在のエネルギー」を象徴し、これが『西洋占星術』の『「牛飼い座」と「アルクトゥルス」』の連関の関係性として、更に『禅仏教』の『「十牛図」と「意識進化への牽引」』の「意味エネルギー」の発現へと交差する事で顕在化する様に見えるのです。
そしてそれぞれが、「西洋における文化的な連関」と、「東洋における文化的な連関」の潮流が、意識エネルギーの交差を通して、現実に投影されたと考えるのです。
これら地球規模の「関係の文化」と「場の文化」の出会いは、人類に潜在する「意識進化への牽引」を象徴し、「時節の到来」と共に、活性化されたと考えるのです。
まあ、こじ付けのマンガみたいな展開ですが、実際にその様に体験され感じられたのです。
少々結論を急ぎ過ぎましたか。。。
では、私のもう一つの「スピリチュアルな連関の柱」である、「秦氏」と「宗像三女神」はどうなのでしょうか。
その辺りも深掘りしてみたいと思います。