【感想文】令和ロマンくるまの本、「漫才過剰考察」の感想

直近でノンスタイル石田の漫才本を読んだためか、視点の違いが面白い。

くるまの「漫才過剰考察」は斜め読みしただけでそこまで深く読んでいないが、基本的には「漫才(師)の分類」と「観客の分類」、そこに時間的な視点を入れたときにどういう組み合わせであればどういう笑いが起きるのか、そういう発想で書かれていると思う。

まず根本的に「観客の分類」の視点が強い。どういう種類の客がいるのか。お笑いファンか、あまりお笑いを知らない人か。年齢はどうか。地域性はどうか。ネタを見たことがあるのかないのか。ワーキャーかどうか。観客についてかなり細かく様々な区分を出してきて分析している。彼にとって漫才とは作品ありきのものではなく、あくまで観客との相互作用の中で起こるものという視点が強く表現されている。

そしてその分類に対して、同じように、ネタの種類や漫才師の個性について様々な視点で分類する。

観客と漫才師。この組み合わせでどういう笑いが起きるのか考える。そしてそこに対して、さらに「前のネタはどうだったか」「前年のM1はどうだったか」という風に時間的な観点を加えて分析の精度をあげていく。

巻末の、霜降り明星粗品との対談で粗品が指摘していたが、くるまは観客の反応を嗅ぎ取る嗅覚が鋭いのだろう。そのために、漫才の分析が非常に立体的である。

逆に言えば奇妙なほどに、漫才のネタそれ自体の分析は比重が少ないし、一般的な漫才の分析よりも考察の枠が1段階広く、全体観が漫才という現象そのもののスコープで存在している。

M1の優勝よりもM1の盛り上がりを考えるという彼の発言は、建前も実質も勝負事であるM1に対してプレイヤーが発するにはかなりメタで嫌味なスタンスであるが、おそらく彼の根本的な視点というか動機はこの「立体的な漫才ー客の分析がどれだけ高い精度かどうか」というところにあるのだろう。そうであれば納得がいく部分がある。

またテレビにあまり出ないというのも、漫才をさらにメタで引いてテレビや何やらと比較してその全体から最適解を考えるというくるまの思考の癖なのだろう。

「自分の分析が正しいのかどうか」に対する関心の割に、くるまは「自分が面白いと思われたい」という関心があまりに少ない。少なくともそういう動機を表明しない。どうしてこういうパーソナリティーなのか、そしてなによりその独特なそのパーソナリティーをくるまは自分自身の戦略の中で漫才師として今後どう立ち現せていくのか、今後令和ロマンをそういう観点でも気になっていくだろうなと思わされる本だった。

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