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「ナミビアの砂漠」が気持ち悪い

高校時代の友人に誘われて新宿で「ナミビアの砂漠」という映画を見てきた。好きになれなかった。この映画自体もそうだし、この映画がどういう風に受け止められているかについても、あまりいい思いを持てなかった。これはそういう感想文ですし、批判的と読んであなたが想像している通りの感想です。見たくない方はブラウザバックしていただければと思います。また下記ではネタバレも全開なのでそこにも注意。

ナミビアの砂漠のあらすじ

あらすじをまず振り返る。私の理解した映画のあらすじは以下のようなもの。

主人公のカナには、不動産関係の会社に勤めるホンダという彼氏がいて、彼は「優しくて」「真面目」な彼氏だが、彼の向けるカナへの愛情はどこか上滑りしているために、カナの心は満たされていない。それ故にカナは浮気をしているわけで、その相手はハヤシという、自由な遊び心を持った刺激的な男だった。カナはホンダによる浮気(風俗)の告白をダシにして、ハヤシに乗り換えて自分の居場所を見つけようとするが、その試みは、ハヤシの親族とのコミュニケーション、生活の中での違和感(ハヤシの過去における中絶の存在への気づき)、ハヤシの友人とのコミュニケーション(都庁に働きにくる財務省の友人)等を経ながら挫折をしていき、カナは追い込まれていく。そして追い込まれていくカナは、その中でハヤシに対してDVを始める。過酷な日々の中でカナは、ナミビアの砂漠の動画をみて、アパートの隣の住人が英語の勉強をしている声に耳を傾ける。彼女はここではないどこかに自分の居場所を求めているのだ。そして、ある日自分の異常性と向き合うために精神科を受診し、自分を俯瞰的に見る視点を少しずつ獲得し、アパートの隣の住人の女性から、ついに先人として、自分のことを理解してくれるような言葉をもらうことができ、彼女は少し安心する。最後はハヤシから自分のことを理解しようとする意思を確認できて少し幸せになって物語は終わる。

物語の軸になっているのは、主人公の居場所のなさという感覚だと思う。中国にルーツを持ち実家との関係が疎遠である主人公は、友人とのコミュニケーションでも絆を感じられないでいるし、職場の人間関係も希薄で、二人の彼氏は主人公に対する理解がない。

冒頭のシーンで同性の友人は自殺の話を他人事として面白いスキャンダルのように語り、主人公はそこの感覚をうまく共有できない。一人目の彼氏であるホンダの優しさは、その実主人公のことなど見ていないひとりよがりで自己陶酔的なものであり、それはホンダによる自分を許すための身勝手な風俗の告白と、その後の、カナがいなくなった原因を自分のその告白に求めて彼女のことを「理解している」と簡単に断じてしまう姿勢からも見て取れる。無論彼のこの一方的で相手を見ない「優しさ」は序盤で泥酔している主人公にピルを飲ませるシーンからもある種支配的で加害的な側面を持つものであることが推察できる。二人目の彼氏のハヤシは、主人公と自分が一緒にご飯を食べることを強要しながら主人公のことを(おそらく自らのロクでもない創作活動のために)蔑ろにするし、彼の親族とのコミュニケーションの中ではその女性社会の中には既にかなこという「カナ」がいて、語り手のカナ自身の居場所はないし、そもそもカナは彼の母親が話す「インター」という言葉の意味がわからないくらい彼と階層が違ったことを思い知らされる。さらに、彼とのディスコミュニケーションが彼女を苦しめる。彼と喧嘩をした後にデートで登った都庁において「こんなところで働きたくないよね」とカナは言ってハヤシは笑って彼女と心が通じ合ったように見える。しかしそこから数分もしないうちに、彼は都庁で働くエリートで財務省な友人を幾分か誇らしそうにカナに紹介する。結局のところ、ハヤシはカナの機嫌をとってその場を乗り切っていたいだけで、彼女のことを分かろうともしていなければ彼女に対して誠実に正直にコミュニケーションをしようともしていないのだ。そして、ハヤシは、カナの機嫌が悪くなると、身体的なコミュニケーションからセックスに持ち込んで誤魔化そうとする悪癖もあった。

カナの苦しみは、物語の終盤のカウンセリングのシーンでやることと考えていることを一致させたいという願望の吐露に表れている。また、アパートの隣人の言葉として救いになるのが「分かるよって言われるのが嫌そうにみえて本当は嬉しいんでしょ」という趣旨の言葉であることも、本当の意味で理解されることを、自分を理解することを望んでいることを示している。

こうしたカナの抱える問題の背景には何があるのだろうか。

カナの背景と男女論

カナの抱える問題の背景についての分析として、上記のブログがすごくわかりやすくまとめてくれていたと思う。ここでは、帰国子女としてのアイデンティティの問題、中絶の問題、そして幼少期の父親からの性的虐待の可能性という三つの論点が指摘されています。

海外から日本に戻った帰国子女が、
アイデンティティの障害に陥ることは、
非常に良くあります。
自分は、日本人なのか? 
中国人なのか?
どちらでもないので、
自分の「居場所」がないのです。
それが、彼女の「生きづらさ」の理由です。

しかし、
帰国子女のアイデンティティの問題だけで、
境界型パーソナリティ症にはなりません。
何か、もっと昔に、
別な要素がないと・・・。
一つは、
「中絶」のトラウマは影響しているでしょう。

パーソナリティ症の発症には、
幼少期の体験が大きく影響していることが多い。
それを知った上で、本作を振り返ると、
いくつかの伏線が見えてくるのです。
(中略)
カナの幼少期は、
どんなものだったのでしょうか。
父親から性的虐待を受けていた。
と考えるのが、妥当でしょう。

ここで理解できるのは、カナの抱えている問題が非常にフェミニズム的な側面から理解されるものだということ。中国という論点についても、一緒に見にいった私の友人は、一人っ子政策というポイントが背景にあるのではないかという感想を述べていた。

そして、フェミニズム的な観点からの、男性社会の持つ加害性というポイントは物語の背景に存在し続ける。

冒頭のシーン。カナたちの隣のテーブルの会話が「ノーパンしゃぶしゃぶ」であることから始まり、友人と向かうホストクラブの光景とその帰り道で通りすがりのホストに「バカマンコ」と罵倒されるシーンに至るまで、男性からの加害と搾取がそこには確かに存在している。

最初の彼氏のホンダは、泥酔をしている主人公に対してピルを飲ませる。また、彼が浮気をするのは風俗という場所であり、そこに行くのは会社の上司との付き合いという極めてホモソーシャル的な理由のためである。

二人目の彼氏のハヤシとの中では、中絶というテーマがカナの気持ちに対して深い影を落としていく。カナとハヤシのディスコミュニケーションを示唆する財務省の友人という存在は、ハヤシにとって彼の学生時代から続くホモソーシャル的な絆でもある。カナも加害者ではあるにせよ、ハヤシも家の中でカナに暴力を振るう側面があることはいうまでもなく、突然大きい声を出し、そうかと思えばごめんと謝ってみせるハヤシの姿は、典型的なDV彼氏そのものである。

男性の精神科医はカナとまともに話そうとしない。カナにとって関心ごとである診断名を大したことではないと一蹴し、カナの収入の少なさを聞かずとも分かっているという態度で済ませる。他の病院に紹介状を書くという行為は彼はカナの話を聞くつもりがないということの表れでもある。

女性同士の関係性

なるほど、物語の中では、一貫して男性による女性への加害という通奏低音が存在していることは明らかだ。しかし、物語の中で女性同士の関係性はどう存在しているのか? なぜ女性同士の繋がり、シスターフッドは存在していないのか? 

監督、山中瑶子。スタンダードサイズの狭い画面の中でもがいているような河合優実をひたすら見せる。いろんな人がいうようにグレタ・ガーウィグの『フランシス・ハ』や『わたしは最悪。』と並べたくなる。このヒロインは清々しいくらいだれともつながらず、シスターフッド的香りもない。あと特徴的なのは音楽で物語の雰囲気を作ることもいっさいしない。カナが聞いているであろう環境音を強調して聴かせる。混沌とした状態では色んな音が過剰にミックスされてノイジーに響くのだ。

https://jiz-cranephile.hatenablog.com/entry/2024/10/05/132046

なぜこの物語にシスターフッドが存在しないのか。例えば下記の通り、それはフェミニズムと相性が悪いものだからなのかもしれない。

彼に対する自分の攻撃性だけが燦然と輝きながら真実味を帯びるなかで、どんな「支援」もカナを満足させるものになりはしない。だがその中でかすかに描かれるのが、唐田えりか演じるアパートのお隣さんとの邂逅である。お隣さんと焚き火を囲んで言葉を交わし、火を飛び越え合うようなシーンがいっちばんカナがしんどい状態のときに描かれるが、あれをカナの空想か妄想かのような描き方にとどまり具体的な場面として描かなかったのも、フェミニズムへの微妙な作者のスタンスがあると思う。安易にシスターフッドを解決策にしたくもなかったんだろうなと思う。ていうかシスターフッドじゃ全然ダメなのかもしれない、っていう予感に誠実なのだろう。実感としてわかる。前述の通り女は、女の攻撃性を嫌うから。気まずそうに目をそらすから。

https://note.com/kashidanamikida/n/nf1fb162a2ee4

これは物語から要請される必然だ。意地の悪い書き方をすると、彼氏に対してDVを振るう加害者としてのカナに、女性同士の関わり合いによる解決を目指そうとすると、そこでは何がしか別の物語が発生してしまう。そしてそれは、カナをカナとして描くのに都合の悪いものになる。そこではカナが女性を傷つけることもあるかもしれないし、反対にその女性の側がカナを深く追い詰めるかもしれない。いずれにせよ、そこには人間関係に伴う傷が必ず発生するはずだ。しかしこの物語はそれを描こうとしないのだ。それは、「シスターフッドを安易な解決策として提示しない」という価値を果たして持つものなのだろうか?

それにしても、カナは自ら女性同士の関わり合いを徹底して避ける。そして非常に意地悪な見方をすると、そこには常に見えない男性による加害という側面があって、それがカナに対して女性同士の関わり合いを妨害しているようにも読み取れる。

友人とのコミュニケーションの断絶にはホストクラブという男性からの搾取が存在し、BBQにおける女性とのコミュニケーションの中では「妊娠」というテーマがカナの中絶というトラウマと呼応する形で関係形成を阻害する。更に、19歳の女の子との喫煙しながらの会話においては男性社会によってもたらされたルッキズムの最たる例とも言える「整形」というキーワードが二人を分断してしまうようにも見える。女性との関係形成のポイントにおいては何らかの形で常に性が横たわっているのだ。

下記の通り、岡崎京子のpinkとナミビアの砂漠を並べているnoteがあった。

pinkのことを私はとても好きだったので、この作品を見た時との印象と何が違うのか考えた。pinkでは主人公を苦しめるのは継母であり、女同士の関係性である。

ナミビアの砂漠への嫌悪感

もちろん、この映画を通じてカナは一貫して露悪的に描かれている。彼女は悪漢であり、描かれている魅力があるとしてもそれゆえの魅力として理解できる。この点においてこの映画はアンフェアではないと思う。

しかし、カナの自由奔放さは、この映画において単純に倫理と責任の欠如であるだけで、そこには一才の軸も哲学もない。カナがハヤシの家に移り住んだのは、ハヤシからそう望まれて、また、ホンダの浮気というきっかけのあったということにすぎない。そして、倫理と責任を欠如させることに対してもメタ的な自覚などなく、責任がないことに責任を持つというあり方すらもここではされていない。ただ単純に彼女は未熟で幼稚なのだ。自分から彼らに対してコミュニケーションを取ることはできないししない。また、男たちを傷つけて悪びれもしない。

ホンダとハヤシは結局のところカナによって深く傷つけられている。それはいうまでもないことだ。倫理的な議論をこの点においてするのであれば、その傷は、果たして公平であったのかということだ。ホンダとハヤシには確かに至らない部分があった。それでも彼らはあそこまで傷つけられなくてはいけなかったのか?

そして先ほど解説した通り、この映画の中では女性同士のコミュニケーションは限定され、その結果、このようなホンダとハヤシに対する傷つけの行為は、カナのどうしようもない未熟さ故であり、その未熟さ自体がその原因を「男性によるものだから」という形で免責をするような鑑賞が、非常にしやすくなっている。

なんといってもカナはまだ21歳だ。多分彼氏は二人とも年上で、クリエイターの彼氏の方に至っては金持ちのお坊ちゃんで同級生は官僚なので21歳の時には学生として親の庇護のもと楽しく学生生活を謳歌していただろう。彼氏たちはそんなカナを庇護しているように振る舞うけれど、カナにはなんの憂いもなく楽しめる若者としての時代はない。まんこ呼びをされ、風俗に行ったことを懺悔され、浮気相手に一緒に暮らそうと言われ連れ出される。誰もカナの人生の全体像について思いを馳せない。女としてのカナしか見えず、大人として若年のカナに向き合うつもりのあるひとはいない。男達が奔放なカナに振り回されていると見る人達も多いだろう。でもそれは、彼氏の二人とも、カナを対等に見ていないし、カナという女性の人生を信じていないからだ。なのに、カナが21歳で一人前だという建前を使って彼女を「彼女」として扱う。大人として扱われた責任をとらされるのは、たとえ実際に大人でなくてもだいたい女性だ。堕胎された胎児の写真はそれを証明する。カナがイラつくのも当然だ。

https://note.com/arcavir/n/nc2bf90d45f07

無論、分からないわけではない。であれば、結局のところ、彼女に必要なのは、どのような関わりかということを考えなくてはならないだろう。彼女を責任を持たない主体として扱いながら、一方で彼女に対して対等に扱い、彼女の人生の全体像に想いを馳せ、彼女の人生を信じる存在。それになんと名前を付けるべきかは明らかだろう。そう、教師であり、教育である。この物語にシステムとしての問題があるのだとしたら、それはもっと別のところに原因を求めなくてはいけない。

しかし、この物語は徹底的に、幼稚な意味での男女論的観点に残り続ける。この物語の終わり方が、彼氏からの「それってどういう意味?」という質問で終わるように。いうまでもなく、これは、彼氏であるハヤシが自分に関心を持ち自分の人生の全体像に理解を示そうとしてくれたという点で物語の終着点となる。

これではハヤシを教師にすることを求めているだけだ。いうまでもなくハヤシにはそれを果たすことはできないだろう。彼は実家が裕福なだけの無職であり、彼女の人生に対して、父性をもって責任を持つことなどできないしするべきではないのだ。その先に待つのはどうしようもない共依存関係でしかないだろう。

彼女がこの物語で発揮した主体性は、精神科に行くという決断以外に何もなかったし、それは彼女自身の問題で、何も克服されないまま物語は終わる。物語は最後ハヤシからの声かけで終わる。そう、足りないのは彼女の主体性ではなくケアと理解だったのだ。理解ある彼氏の存在がいないのが彼女の問題だったのだ。そんな物語でいいんだろうか?

別に成長なんてしなくていいし、感情を出すことだって悪いことではない。だがしかし、その裏で公正ではない形で傷つけられる人がいるということを私なんかは考えてしまう。

友人との感想

概ね私はこの映画を見てそう感想を持った。一緒に行った同性、つまり男性の友達も同じような印象だったのだと思う。男性と女性で観た感想が分かれやすい映画かもしれない。

もしそうなのだとしたら私のこれはただ単にポジショントークなのかもしれない。私が村上春樹を好きでこの映画が嫌いなのは、いうまでもなく有害な男性性そのものであるかもしれない。

しかし、そんなことでいいんだろうか? 

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