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文才ってなんだ?

 今回のテーマはこの動画から。ゆる生態学ラジオです。あ,今回も特に結論は出ずに疑問は疑問のまま終わるのであしからず。

 以前ゆる言語学ラジオにハマってからこっち,すっかりゆる学徒になっています。最近はゆる哲学ラジオと派生で積読チャンネルを中心に聴いていますね。ゆる哲学ラジオとゆる生態学ラジオはパーソナリティのトキヒロさん同様にモタスポ好き,そしてよしのぶさんと同じ出身地,という共通点も多くて勝手に親近感を抱いていたり。

 で,今回の動画の中身はというと,新年初収録ということで今年の目標の話を交えた雑談回になっています。その中で,トキヒロさんがよしのぶさんに「文章とか書いてみたら?」と促されて,文才の話になったという流れです。なんでも,トキヒロさんの奥さんとその友人の文通をしていて,その素直な文章から二人の文才を感じたのだとか。それがサムネになっているわけですね。


 それを一通り聴いて,今回のタイトルの話になるわけです。
「そもそも文才ってなんだっけ?」

 noteを書くことを習慣というか趣味にしていながら,あまり気にしたことがなかった概念でした。自分自身が「あるほう」なのか「ないほう」なのかもよくわからないし。



 とりあえず,辞書通りの意味合いとかは各々引いてもらうとうとして――というか「文章を書く才能」みたいなまったく求めている回答ではないので横に置いて――私個人の解釈をぶち上げておきます。それは,


 いい文章,特にエモーショナルな文章を書く人に対して逆説的に感じるものが「文才」なのではと。


 文章というのは日本においては作文教育のおかげで大多数の人が書けるわけです。つまり,みんな多かれ少なかれ訓練を受けているということ。そんな中で際立つ文章を書ける人というのは,それはもう才能から,生まれて持ったものが違うんだ,という発想になるのは自然な気がします。

 そもそも才能と訓練を分けるということは困難ですが,そうした共通の訓練を受けたといううっすらとした合意のなかで,際立ったものを書ける人の能力を才能というものに解釈する,というか託すのでしょう。「同じことをしてきたはずなのに仕上がりが全然違う。アイツとは俺たちとは才能から違うんだ」みたいな。

 一方で,理論整然とした文章を書く人への評価には「文才」は使われず,どちらかというと「文章力」や「構成力」が使われる印象があります。これらは,訓練で能力を高めることができるという暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。おそらくそれは,誰もが小論文などの書き方の教育を受けるから。

 そう,「感動的な,エモーショナルな文章を書く訓練」は誰も受けていないんですよね。だから,作文教育が感動的な文章を書くことに注力したら,今度は理論整然とした文章を書く人が「文才がある」と言われるんじゃないかな。


 総じて,文才は「そんなものはない(あるか定かではない)けど,人からそれを感じることができる」という矛盾した概念なんじゃないかと。身も蓋もない言い方をすると後付け。

 これは書く側にとってはある種の救いで,文才がなくても書けば後から文才を感じる人は出てくし,誰かにとって――たとえ自分にとっても――文才がなくても,文才を感じてくれる人はどこかにいるということ。だから,「文才がない」なんて気にせずに書こうぜ!ということ。


 なんか偉そうになっちゃたけどこれは自戒でもあるので。
 「表現の先にある君を 怖がらないで見せてよ!!」(二回目)


 それではまた。


 


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