ハンナ・アーレント「人間の条件」④社会≠政治

まさかの二日連続更新である。
というか読みながら私はメモ帳みたいなノートに本文の要約をしているのだけど(↓みたいな感じで)これをもとにしてこのnoteを更新しているので、更新が早い=まとめるのをさぼっている証でもある。

さてさて今回は前々回の話とちょっとつながる。
アリストテレスらポリスの哲学者たちは「生活の必要から自由になって」ポリスの政治に参加した。

アリストテレス曰く、人間とは「政治的動物」であるという。ただしハンナ・アーレントは付け加える。ここでいう「政治的」とは決して「社会的」という意味ではないのだと。
何が違うん? というところからアーレントの話は始まっていく。

そこには現代にいたるまでの誤解があるのだと。


■社会的=政治的?

アリストテレスは人間を

政治的動物 zoon politikon (ギリシア語) 

であるとしたが、後にこれがキリスト教に持ち込まれるようになったとき、アリストテレスに影響をうけたトマス・アクィナスらは

社会的動物 animal socialis(ラテン語)

と訳した。
しかしこれをハンナ・アーレントは「誤訳」であるとした。

アリストテレスのいう政治的人間は「目的を持つ人々の団結」を意味するラテン語socialisでは意味が広すぎる。
政治に参加する人間というのは、むしろある社会から自由になっていないといけない、というのだ。

そのある社会とは何なのか?
ハンナ・アーレントはこう述べる。

アリストテレスは人間の共生に意味を発見しなかったわけではない。
自然のままの単なる交わりは、動物生活も共有しているものであり、人間の特質とは考えなかった。

むしろ、自然のままの単なる交わりは生物学的生命の必要のために押し付けられる制限と考えられた。

またも「必要」という言葉が出てきたところからわかるとおり、ここでいう自然のままの単なる交わり=家族などである。ポリスの政治に参加するためには生活の必要から逃れなければいけない。職人仕事、奴隷の労働、家事労働などなど…。

そういった必要のための繋がりとはなんだろうか。
たとえば、家庭。部族や種族のような血縁に基づいた組織。
こういったものは古代ギリシアでは自分自身のものidionと呼ばれた。
これらの動物にも共通した血の繋がりなどに基づいた共同体は前政治的なものだと考えられていた、とハンナ・アーレントはいう。

そしてこれらは暴力によって統治されるのだと。

では、もうひとつの共同体――政治はどうだろうか。
これをアリストテレスは「人間事象の領域」と呼んだ。都市国家とはそういった生物的必要に基づいた繋がり――暴力の統治――からは自由な人々が集まり作り上げるものなのだと。

では、政治という共同体を統治するものは何なのだろうか
(ここでハンナ・アーレントがいう政治には専制君主制などは考えられていないようだ。言葉としてはあまり出てこないが、国民国家などを想定していると考えられる)

それは「言論と活動」だとハンナ・アーレントは述べる。
都市国家においては生活の方針が言葉と説得によって決定される。
だからこそこれは物などに寄らない「人間事象の領域」なのだと。

正しい瞬間に正しい言葉を選び、相手に伝える。これが言論と活動であり、この連続が人と人との関わりを――都市生活を構成していく。

これこそ自由な政治の場であり、ここには家庭や部族、種族のしがらみは入らない。単に必要に過ぎないものたち(あるいは有益なもの)は一切厳格に排除された共同体が政治なのだ。


もう一度最初に戻ると、アリストテレスのいう「政治的人間」には単なる必要上の人同士の繋がりは含まれておらず、むしろそれら自然的結合とは対立するものである。「社会的socialis」という語には自然的結合も含まれるため、アーレントはこれを誤訳であるとした。

ここにもう一つの定義を加えることでアリストテレスの「人間の定義」は完成するとアーレントは述べる。

人間とは言葉を発することのできる存在zoon logon ekhonである。

政治的領域と社会的領域の同一視という誤解について、アーレントは示した。しかしより一層難解な問題があるという。

それは「社会」という言葉の近代的使用法と近代的理解にあるという…


なんかめっちゃわかったような顔で書いてるけどほぼ理解できてないっす。
次回に続く!!!!!

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