ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(感想文)
〇灯台へ向かうひと、陸にのこるひと
あたらしい時代には、あたらしい生き方が渇望される。
ひとはひとつの時代という安楽の船が沈んだあとで、溺れないように必死にもがきながら、生き残るための手段を求める。
そのときに、もとの居場所であった古い時代に戻ろうと灯台へ向かうひともいれば、灯台に背を向けて一心不乱にもがき、か弱かろうとも一片の板切れにしがみつくひともいる。
第三部のラストシーンで交互に描かれる船と陸地は、父権的な社会的価値観を回顧し、そこに戻ることを求めてきたひと(ラムジー、キャム、さいごにはジェイムズも)と、男性中心かつ女性蔑視の社会のもつ安定を愛しながらも疑い、個人の生きる道を求めようとするひと(リリー)の姿を対照的に描写する。
船で灯台を目指す一行の主であるラムジーは父権的な社会――特に家族の在り方にまったく疑いのない世代であり、娘のキャムはそれを憎みながらもどうしても前時代の男たちが醸し出していた安堵感を懐かしく求めてしまう。ジェイムズは父の横暴な振る舞いに心を折られながらも、深い部分では父の生き方についていくことを受け入れている。
一方、陸に残るリリーはいつまでも船が遠ざかること(距離の重要性が語られる)を気にしており、ラムジーに対して女性らしく同情ができなかったことを引きずっている。また、ラムジー夫人に対しては彼女の没後からより強くその威光を感じており、彼女の生き方が放っていた永続性を感じさせる生き方に強烈なまでの憧れを抱いている。
しかし、前時代の家父長的な家族の在り方や、それに殉死するかのような生き方がすでに通用しないこともわかっている(ミンタとポールの結婚生活が破綻しかけながらも再生し、「仲の良い友人同士の雰囲気」をもった夫婦像として思い出される)。船が見えなくなってしまったあとで、彼女は自分のヴィジョン(見方)をつかんだ、と語るが、ここに至るまでの葛藤の複雑さには、あらたな時代に、あらたな価値観の発見をもって適応しようとするひと(女性)の戦いが描かれている。
〇永続性とその崩壊
ラムジー夫人の生きていた時代(第一部)は、アーレントいうところの「世界性」の永続が家庭内・社会内で信じられてきた時代であった。第一次世界大戦前の、社会が安定していた時代に生きている人間の象徴として夫人は描かれる。そこにはまだ家父長制が疑いなく機能しており、男性も女性も家庭内外での秩序的な生き方を享受している。女性一人での自活は「カーント(can't)」であり、男性ひとりでの生活もまた不自然なものとして描かれている。
ひとつの家庭があり、そこから子が生まれ、新たに家庭を作り、また子が生まれ……という人間という生命の永続が疑いなくつづいていた最後の時代なのだ。
その永続性を支えているのが女性――ラムジー夫人なのだ。彼女は女性的に振る舞うことをひとつの秩序として受け入れている。だからこそ、夫が夫らしく振る舞わないことに心をかき乱される。ここでは父親を頂点とした家庭の内部構造を遵守することは絶対であり、夫が妻に従順を望むように、妻は夫に信頼に足る態度を望んでいる。
安定の崩壊が始まるのは、第二部――ラムジー夫人の死からだ。そこからすべてのバランスが崩れ、長男のアンドリューは戦死し、長女のプル―は出産時に死亡し、一家は崩壊へと流れていく。
この作品のなかで、真に一貫性のある永遠を獲得し、望めば時を留めておけることに確信を抱いているのはラムジー夫人だけだった。一家の頂点であるはずのラムジーは、妻の死後どう見ても家族を繋ぎとめておけていない。前時代において家庭という永遠の場を陰で保ち続けてきたのは女性であり、男性はそのための象徴にすぎなかったのだと身をもって表現しているかのようだ。
〇あたらしい生きかたを求めること
あらゆる時代に、時代の変化による不安定があり、文学はそれを見つめる。
リリー・ブリスコウはその対照的な人物――生き方の一貫性を保てずに生きる人物として描かれる。
彼女が安定を憶えて生きられていたのはラムジー夫人の傍にいるときだけだった。彼女自身はそのことを回想の中で疎んじたり、疑ったりもしているが、つねに夫人の影を身近に感じている。確固たる女性の生き方を示してくれた夫人の存在を――時代に安定を授けてくれた存在を渇望しているのだ。
リリーが最後に「ヴィジョン」を見つけたというその一点に、ヴァージニア・ウルフの望む女性、ないしは新しい時代の人間の生き方が伺える。失われてしまった永続性をどうにかもういちど作り直そうと、転覆し沈んでしまった船から投げ出された水夫が流木に縋りつこうとするかのような、もがき苦しみながらの生き方の模索。それこそがウルフの描きたかった人間像だったのではないだろうか。
だからこそ、かつて母を愛し父を嫌悪していたジェイムズが(ついでにキャムが)、荒波のなかで父という泰然とした灯台を慕うのは、人間の自然であり、ウルフの人間観のひとつの表れなのだろう。すべてのひとが、リリーのように新しい時代に沿った己の「ヴィジョン」を見つけられるわけではない。旧態依然とした家父長制に縋りながら生きていくこともひとつの生き方であり、多くのひとにとっては安らかな場所となる。ただそれは、灯台のようでありながら、沈みゆく巨大な船のようにも思われるのだが。
この時代において、次の時代において、社会が変われば生き方はどんどん変わっていく。家族――夫婦、親子の関係性も変わっていく。もがきながら、戸惑いながら、今の時代に生きるわたしも新しい道を見つけることをあきらめずにいたい。