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ビタミンの父

社会人になってからずっと感じてきたことがある。

それは、「起こらなかったこと」や「予防」のための仕事には、なかなか日が当たりにくいということ。

一方で、「起こってしまったこと」に対応する仕事は、コトが重大であるほどスポットライトを浴びやすい。
実際に、映画やドラマ、小説で描かれるのは多くがこちらだ。

今回は、とある予防を成し遂げた人物について書きたい。

高木兼寛は、1849年、宮崎の穆佐(むかさ)で産声を上げた。
武士の子として生まれながらも、地元で慕われていた医師、黒木了輔に憧れを抱き、医学の道をこころざす。

17歳より鹿児島で医学を学び始め、その2年後に始まった戊辰戦争では、藩医として討幕軍に従軍。
しかし、当時の藩医は、銃創などの戦闘による傷の対処について十分な知識がなく、重傷者は命を落としていった。

そこで、討幕軍を率いていた西郷隆盛は、英国領事館の医師であったウィリアム・ウィリスに、負傷者の治療を依頼。
ウィリスは、麻酔を用いた外科手術や消毒処置によって、多くの兵士を救う。

兼寛は、ウィリスの治療を目の当たりにし、西洋医学の知識・技術の必要性を痛感。
戊辰戦争後、ウィリスが赴任した鹿児島医学校で2年間の学びを経て上京し、1882年に海軍の軍医となった。

国民病であった脚気(かっけ)は軍でも蔓延しており、一人が複数回罹患するような状況だった。
※脚気・・・末梢神経の障害や心不全を引き起こし、重症化すると死に至ることもある。

しかし、原因は解明されておらず、治療法も確立されていない。
戦闘ではなく、脚気で亡くなる兵士も多かった。

兼寛は、この病に立ち向かうべく、医学を根本から学びなおすための英国留学の機会を得る。
5年間、本格的に英国医学を学び帰国すると、脚気の原因の調査を始めた。

当時、脚気は伝染病と考えられていたが、兼寛は、病人が置かれた「環境」から、要因をつぶさに調査した。

やがて兼寛は、食事との因果関係を突き止め、タンパク質と炭水化物の割合に原因があるという仮説を立てる。

この栄養説を確信した兼寛は、練習艦「筑波」に改善食を搭載し、過去に大量の脚気患者が発生、25名の死者を出した軍艦「龍驤」(りゅうじょう)と同じ人数の兵士、同じ航路、同じ日数をかけて航海する実験を行った。

7か月後、ハワイに入港した筑波から電報が届く。

「ビャウシャ、イチニンモナシ。アンシンアレ」


兼寛の尽力により発見された、改善食による有効な予防策は、その後多くの兵士を救った。
しかし、兵士の「全て」は救うことができなかった。


兼寛の栄養説は、保守的な権威者たちの激しい抵抗に遭ったのだ。

海軍の栄養説に対し、陸軍が採用していた伝染病説は、練習艦「筑波」の実験結果を受けてもなお、支持された。

それにより、日清戦争での陸軍の脚気患者は34,783名、死亡者3,944名、日露戦争では211,600名の患者が発生、27,800名もの兵士が亡くなった。
一方、海軍では合計で患者数約40名、死者は1名であった。

兼寛の栄養説は、鈴木梅太郎のビタミンの発見につながり、脚気はビタミンB1の不足が原因で起こることが解明された。
※宮崎では兼寛を「ビタミンの父」と呼ぶ。全国的には、兼寛が改善食として白米を麦飯に変えたことから「麦飯男爵」の呼び名もある。


予防は、出来事との間に必ず、時間的、距離的空間がある。
その空間は、論理的な説明や、信頼できる数字をもってしても、完全に埋めることはできない。
その隙間にはしばしば、人間の思い込みやプライド、身勝手な都合が容易に入り込んでしまう。

それでも、予防に従事する人々は、適切な想像力をもって、調べ続け、伝え続ける。
それが起こらないように、丹念に確認し、誰も気づかないような小さな調整を入れていく。

今この瞬間も、望ましくないことを「起こさない」ための仕事は、ひっそりと、地道に行われている。

祈りにも似た尊い仕事に、光を当てたい。







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