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言葉の魂について
言葉には魂がある。
と、最近、強く感じるようになった。
つまり、「言霊」というものは在ると、どうやら信じるようになっている。
以前は、心のどこかで、言葉なんて、口では何とでも言えるもの、と思っていて、深く言葉を信用していないところがあった。口では綺麗な、体のいいことを言いながら、実際の行動が伴わない。そういう人を多く観てきたし、実のところ自分自身がその代表のようでもあった。大言壮語、行動の伴わない口先だけの人間。言葉をペラペラと繰(く)ることで、その場をしのぐようなことも幾度もしてきたように思う。
ただ、詩を書き始めてからだろうか、それまで、コミュニケーション、伝達の道具だった言葉が徐々にその役割を変え始め、いつしか、「言葉そのものを目的とした言葉」というような存在になっていった。
(詩について(2)の記事でも書いたが、)言葉には、他者への伝達という道具的な機能の他に、「言葉そのものを目的とした言葉」の在り方があって、それが「詩」が与えてくれた言葉への大きな気付きだった。意味のやりとりとして言葉を使用するのではなく、無意味に言葉そのものの美しさを味わう。詩とは、言葉のもうひとつの姿であり、むしろそれこそが、言葉の正体、本性のように思われた。
20代の終わり頃に詩と出会ってからは、言葉に強い存在感を感じるようになっていった。それまで空気のように透明な存在として、何となく使用していた言葉が、生活の中で強く、生々しく意識されるようになってしまったのだ。
だから、以前のように、どうせ言葉なんてとか、口ではなんとでも言えるという風には、思えなくなってしまった。言葉を軽んずることが出来なくなってしまったのだ。まるで彫刻作品のように言葉が強く屹立する世界に入り込んでしまったかのようだった。
今では、自身が発する言葉は、すなわちそれはそのまま「行為」であり、言行が強力に一致するようになっている。「行為」というのは、発した言葉を行動に移すということというより、もっと肉体の運動というか、発する言葉、受け取る言葉そのものに「成る」という体験をしていると言った方が正確な気がしている。言葉のひとつひとつが身体感覚として経験される、その言葉によって身体に働く運動、その実感。
例えば、林檎、と呟いたとして、林檎に我を重ね合わせ、その質感や質料を肉体で体験する。頭ではなく、全身体的に林檎の存在を感じる、味わう。また、例えば、「有難うございます」にしても、有り難い、つまりそれが希少であるという切実な実感を伴うように、扱う。簡素な記号としての言葉ではなく肉体として言葉が立ち上がってくるのだ。
もはや、僕にとって、言葉は単に道具ではなく、強く生々しいもの、身体を流れる血液、血潮のように感じられるものとなってしまっている。だから、言葉にすることには当然、都度、覚悟も伴うようになった。その言葉の責任を負い、それを果たす。どこか、言語空間との誓約を結んでいるような、そんな思いがある。大袈裟に言えば、信仰心とも言えるのかもしれない。吐く言葉、紡ぐ言葉の、その生命を引き受けるような。僕は言葉を強く信じている。信じてしまっている。
だから、いつしか、言葉に魂というものを見出すようになってしまったのだ。そして、自分自身の魂というものが言葉の魂と響き合い、表現の細部に込もるようになっている、と我ながら思っている。また以前は、言葉を頭の中で考えていたが、今では心から発露するものと捉えるようになっている。
だから、生活の中で摂取する言葉にはかなり、注意深くなった。もちろん、自分が表現する言葉にも。魂というものに関わってくるから。
「天に唾すればわが身に返る。」
吐いた唾は返る。差別的なヘイトを吐く人は、その因果を受けることになるだろう。ユーモアの無い、他人を攻撃するだけの、只の毒づいた言葉は、吐いた当人の人格に確実に悪く作用する。人を暴力的に傷つけることに鈍感であることの愚かさ。それは次第に熟しやがて、悪い実を結ぶ。
ー 言葉は、毒にも薬にもなる。
そういう言い回しが、単なる比喩ではなく、強力な実感をもって迫るようになっている。言葉のひとつひとつに自分の身体を重ね合わせ、ひとつひとつを深く感じる。当然、悪い言葉を吐いたり、受け止め過ぎれば、毒となって全身に回り、心身に不調をきたす。
反対に言えば、善い言葉に強く救われるようにもなった。言葉に込められた魂が、自分の精神と魂を揺さぶり、身体感覚を揺り動かす。善い言葉に触れると潑剌(はつらつ)としてくる。もの憂さは晴れ、病んだ心は和らぐ。毎日、善い言葉や詩を摂取することで生活は明らかに豊かになってくる。
だから、他者へは、悪い言葉は吐かず、なるべく善き言葉を届けるように心がけている。強く反省しているが、かつては、暴言や悪口も厭わなかった。だが、言葉の倫理が、今ではある。
生活で大切にしていること。美しい言葉、善い言葉を大切にすること。また、生真面目に言葉を使い、言葉の責任を果たすこと。言葉の魂。言霊を信じている。言葉の生命を大切にしている。
言葉を喰(は)み、言葉に成る。
そして、言葉を紡ぐ。
言葉は只の道具ではない。
言葉の魂は震えている。