詩について(3)
結局のところ、日々を瑞々(みずみず)しく生きていくには、"詩"が本当に大切だ。
吉本隆明の「詩とはなにか 世界を凍らせる言葉」(思潮社)という本を読み始めている。吉本の言う「全世界を凍らせてしまうほんとのこと」。詩とは、やはりそういうものなのだろう。詩の正体とは大袈裟でなく、きっと「ほんとのこと」、真実やイデアである、と思う。言葉の奥底に蠢(うごめ)き漂っているもの。それは塊なのか、海のようなものなのか、または靄(もや)なのかは分からないけれど、"詩"とは真実という次元に潜んでいるもののように思われる。それは、分厚い日常の皮膜に覆われていて普段、ほとんど見えないもの、見え難いものだ。
言語表現の詩とは、言葉によって、つまり声、または文字によってその真実の階層を啓くものだ。言語表現の詩は、言葉によって裂け目を作り真実を溢れさせる。上等な詩は真実を啓く。本質と真実が詩の正体なんだろう。音楽や絵画や舞踏でも真実を啓くものは"詩"と言えるように思う。
だから、詩とは、多分、芸術の正体でもある。
「ほんとのこと」。真実。イデア。
「ほんとのこと」とはもしかすると錯覚なのかも知れない。真実やイデアは私たちには不可知のもので、真実らしき感触を覚えるのは、ただの錯覚に過ぎないのかも知れない。しかし、限りなく真実らしきものに接近するもの。それが詩だ。真実に接触することは叶わずとも、鍾乳石の尖頭のように真実に接近する。詩、芸術の正体に触れるとき、人は間違いなく真実らしきものを経験する。
その時、人は夢を見るかのような心地となり、「離陸する」(茨木のり子)。彼岸のようなものが垣間見える。萩原朔太郎が「詩が本質する精神は、現在(ザイン)しないものへの憧憬である」というように、詩は夢の如きものだ。現在していないものを垣間見せる。まるで起きながら夢を見ているような幻視的な体験を呼び覚ます。その茫洋とした感じ、感覚。
そして、この詩という真実らしきものには、生命を甦らせる力がある。ホルヘ・ルイス・ボルヘスが毎朝、「詩を汲む」と確か言っていたが、今、生きている世界から真実を汲みとろうと試みれば、人は「ほんとのこと」に毎日出会すだろう。朝コップ一杯の水を飲むように、もし真実を毎日汲みあげられたなら、分厚い日常の皮膜は破れ、生が輝く。詩を汲んだら、この世に生きている本当の実感というものが、詩によってもたらされるだろう。
しかし、僕たちは毎日の労働に疲れ過ぎている。僕らには詩が必要だ。
ディラン・トマスの詩に、
"The force that through the green fuse drives the flower"
というものがある。「緑の導火線を通して花を駆り立てる力」というフレーズ。
この花を咲かせる、緑の迸(ほとばし)りが、僕にとっての詩の力性そのものであり、芸術の力そのものである。流れる血潮が萌え、花が駆り立てられて咲く。生命を揺すり震わせて、枯れかけた魂を輝かせる。
それは病んだ心をいくらか癒し、もの憂さを和らげる。
詩にはそういう力がある。
僕たちに必要なのは詩だ。