
平野暁人さん『もうすぐ消滅するという人間の翻訳』に寄せられたコメントから感じたこと
平野暁人さんが元旦に投稿した『もうすぐ消滅するという人間の翻訳について』は、私にとって非常に考えさせられる名記事だった。
テクノロジーや日本経済を主とした時代の変遷によって、”人間による翻訳”という文化活動が少しずつ縮減していく様を描いている。
純粋に読み物として面白く、そこそこ長文でしたが内容に引き込まれて、一気に読んでしまった。
そのままコメント欄も流れで見てみると、思ったよりネガティブなコメントが多いことに気づきコメントまで全て読んでしまった。
こういう良質なエッセイには、さぞ高尚なコメントが多いのかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
特にNoteにはXよりも質の高いコメントが集まるだろうと勝手に思い込んでいたので、意外にネガティブな声が多く、正直驚かされた。
ここでは、コメントまで読んで思ったことを雑多に書いてみる。
前提として、コメントそのものはただ単に「思ったこと」の表現でしかないので、特に良し悪しはないと思っている。
コメントする側も特に深く考えていないことの方が多いだろうし。
ということで、それぞれのコメントに対して特段、否定的な思いがあるわけではないことを事前に記しておく。
文字量の多さと端的な結論の要求
まず気になったのは、「文字数」についての言及が複数見られたこと。



私は流れで読んでしまったので、特に文章量は気にならなかったのだが、文字数に対して苦言を呈するコメントが少なくとも2つあった。
ただ、原文のタイトルが『もうすぐ消滅するという人間の翻訳について』であり、ウンベルト・エーコ達の『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のオマージュであることや、
記事の書き出しが
ひとつの翻訳が、終わった。
1本の翻訳原稿を仕上げた、わけではない。
この世界に存在していた翻訳のひとつが
いま終焉を迎えたのだ。
である以上、明らかに「結論→根拠→補足」の構造で端的に記載されたものでないことは明白だろう。
翻訳者が自らの業界と個人的な現状を書き連ねたNoteまでもが「無駄に長い」と切り捨てられてしまうのは感慨深い。
平野さんの元記事の中でも、コスパ・タイパ社会が豆腐屋の例を出して触れられているが、いくつかのコメントがこれを体現しているように感じた。
あらゆるものに対して「主張と根拠だけわかればいい」というコスパ主義が、ついに翻訳者自身のエッセイにまで及んでいるのが興味深い。
ちょうど、レジーさんの『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)』で指摘されていたような、“結論だけを短時間で得たい”という風潮を思い起こさせる。
翻訳者のエッセイに対してまで「で、結論は?」「既に”答え”が出ていることに何でこだわってんの?」という思考が働き、しかも「(主観的に)文章が長いこと」が「”無駄に”文章が長い」とコメントされてしまう。
私たちはなんとせかせかと結論を急ぐ、余裕のない社会に生きているのか。
しかも元記事の投稿は元旦であり、コメントがあったのは元旦~三が日にかけて。
余計なお世話だが年はじめくらいはもっとゆったり構えてもよいのでは、とも思った。
“適応しないと負け”というドライな適者生存論
次に目についたのは、“適応しないと負け”というドライな適者生存論だ。
ビジネス・業界環境の変化を進化論に見立て、環境への適応を説いており、「適応出来たら勝ち、そうじゃなきゃ負け」というシンプルな図式で行動指針を示す。
これらは正論であり、まったく反論の余地もない。
「仕事が無くなるかもしれない」という問題への解決策としては私も同意見で、「その通り」としか言いようがないのだ。
ただ、何となくこれらのコメントを読んでモヤモヤした感じがぬぐえなかった。


たぶんここで重要なのは、平野さん自身もこの元記事を読む人も、誰一人として「翻訳業の消滅後に具体的にどう生きるか」を主題としていないことだと思う。
この文章はそもそもが文学的要素を多分に含んだエッセイであり、「”文化的要素が強い職業”がAIに駆逐された後にどのように生計を立てるか」は文章の主軸に置いていないのではないか。
正論でありながらも、先述のコメントに何となくモヤモヤ感があるのは、友人の”ただ単に話を聞いてほしいだけの恋愛話”を聞きながらも、「なるほど、その恋愛に対するソリューションはね、、、」と言ってしまう間の悪い男友達感があるからだと思う。
(しかも本人は「問題解決してやったぜ」と、したり顔のことが多い…)
言っていることはその通りだし、正論としか言いようがないのだが、”そもそも、この場のコミュニケーションで求めているのはそれじゃないんだよな感”を感じたからだろう。
私もつい正論が頭をよぎるので、それらのコメントの言わんとしてることはとても良く分かる。
ただ、自分自身が「正論ご披露!」となっていないかは自己点検したいと思った。
それでも、興味深いコメントも多い
もやもやを感じさせるコメントが一定程度見られた一方で、興味深いコメントも多かった。
特に翻訳家の文体が好きで何度も読んでいるという話は、とても興味深い。
私はそこまで翻訳本を読み込んだことがなく、「特定の翻訳家の文体が好き」という感覚はなかったので、そのような観点もあるのかと勉強になった。
まあ冷静に考えると、書き手の文体に好みがあるように、翻訳家の文体の好みも当然あるだろう。
そこまで翻訳書を読み込んでいる人々に対して、純粋に尊敬の念が芽生えるとともに、最後の一文はなんかよく分かんないけどかっこ良いと感じた。

法定翻訳家を目指した経歴を端的に示しつつ、AIと翻訳責任、エンタメ系における可能性を示しつつ、寄り添ったコメントを書いている方もいた。
短い文章ながら流れがあり、思考の背景まで含めてとても分かりやすく、バランス取れたコメントだと思った。
別に、コメントでバランス取る必要はないのだけれど、教養ってこういうさりげない文章とかで自然と出るんだろな、と思い唸った。

そもそも、エッセイという形式は、レポートの如く「結論→根拠→考察」を端的に示すのではなく、筆者の心情を表出させる場面が大きいものだろう。
だからこそ、読み手は「ここはどう感じたのか」「なぜこう思ったのか」という心の動きにこそ共感や発見を覚える。
実際、平野さんの文章を批判する声がある一方で、それをじっくり味わい、独自の文体や空気感に心惹かれる人も少なくない。
結論を急ぐ余裕のない社会のなかで、あえて遠回りをするような文章に触れることで見えてくる“ゆとり”や“あたたかさ”も、エッセイの魅力だとあらためて感じた。
結局、元記事は傑作だった
ここまで思うがままに書き連ねてみた。
優れた論文が多くの引用を集めるように、“良質な文章”は読み手の心を震わせ、多様な反応・考えを引き出す力を秘めているのだとあらためて思う。
その結果として多種多様なコメントが記されていると考えると、平野さんの洗練された元記事はNoteでも屈指の傑作だと改めて確信せざるを得ない。
いいなと思ったら応援しよう!
