『愛してる』『愛する』『愛される』ってどういうこと?
ずっと「愛してる」ってどういう意味かわからなかった。
人生で使われたことがなかったから。
せいぜい洋画の中で口にするカップルを見たことがあるくらい。
なのにどこで覚えてきたのか6才の娘が「かーちゃん、あいしてる」というようになった。
そしてだんだん愛とは何かわかってきた。
愛とは大切に思う気持ちのことだ。
根底に愛がある、ないというのはその行為が自分のためなのか、相手のためなのかということなんだろう。
愛されてる実感がないと感じるとき、寂しさや虚しさを感じたり、心が傷つく体験をしている。
アダルトチルドレンの負の連鎖を止めたいと思うなら、子供を持たず自分の代で家系を終わらせるという決断をすることも一つの愛なのかもしれないと思うようになったのは、与えられなかったからこそ与えようとする気持ちも、与えられたことがないから与えることができないと思って同じ思いをさせまいとすることも同じだと思ったから。
家族のために働くとか家事をすることが愛だとは思えないのは、子供がいようがいまいが、伴侶がいようがいまいが、それは自分の生活をするためにもともと必要なことだと思っているからだ。
当たり前のことをしてそれを家族のためと言われることに押し付けがましや恩着せがましさのような違和感を感じるのだろう。
こちらがほしがっているものを与えようとしない、あたえることができないことの罪悪感を正当化しているだけに見える。
愛するとは自分が与えたいもの、ほしかったものを与えることなんだろうか?
それとも相手が求めるものを与えたり合わせることなんだろうか?
私には後者の方がより愛情深いと感じてしまう。
なぜなら前者は自己満足で与えられた側が与えた側に合わせることになるから。
私は「食べ物だけは不自由をさせたくない」という信念を持って育てられた。
だから親が感じてきたひもじさをあまり感じずに済んだのかもしれないが、社会人になったからと突然朝ごはんを作ることを放棄され、毎朝5時に起きて一人で卵かけご飯だけ自分で作って食べて6時半には家を出て、1時間以上かけて出社していた日々への怒りの方が衝撃的で、また日常的にヒステリーで暴言を吐かれ、暴力と兄弟差別のある家庭にいたために母に対する安らぎがなかったからか、ご飯を作ってくれたことに感謝の気持ちが湧いてこなかった。
今になって時々食べ物をよこしたりしてくるが、なくても困らないからか、関わることに煩わしさを感じることもある自分が悲しい。
弟や甥っ子姪っ子ばかりかわいがっている姿に嫉妬しているせいもあるんだろうが、親は一人しかいないのに素直に甘えられて会いに行きたいと思えない、緊張感があり、一緒にいても安らげない母との関係性が悲しい。
その一方で『母という存在』に対して甘えたい気持ちがあるのも、そういいながらも実家に行けばそれなりにくつろいでいる自分もいて、でもそこに子供や夫や他者の目があると心を許してはいけない、それを見られたり悟られてはいけないような気持ちになる。
精神的に弱くて不安定な私の子供たちも無意識にたくさん気を遣って私の顔色を伺っているのかもしれない。
少なくともうちの子どもたちはジジババに対して、夫の兄弟や自分の弟の子どもたちが見せるような気さくな態度ではなく、他人行儀だ。
それも私の親や義理の親への態度を真似たものである可能性は高い。
愛がわかってきたと言いつつも、私の中に愛があるのかわからなくなる時がある。
めんどくささが勝って子どもの要求にこたえてやれないことも多々あるからだ。
子供は親の影響も受けるけどももともと本人が持った性質は同じとは限らない。
私は自分がしてほしいことを与えてくれることが愛情の深さだと感じてしまうが、いつまでもこちらのしてほしいこと、しないでほしいことを理解せず、自分のやりたいことばかり、やりっぱなしな夫と長年過ごしているうちに、自分の存在を尊重されていないように感じるようになった。
しかし気まぐれで私の苦手な家事をしてくれることもあるし、仕事の後にご飯を作ってくれることもある。
それは愛なんだろうか?
家事を気まぐれですればよいのであれば、我が家はもっと汚れて散らかり放題のはず。
やっぱり自分以外の家族にとっても快適に過ごせる環境を作るために家事をしていることも、そして全員が生きていけるだけの稼ぎを持ってきてくれていることも、それは自分の時間(命)を自分以外の人のために使っているのだから義務感があったとしたも愛になるのだろうか?
家族が大切だから家事をしているという自覚はない。
体の不調やメンタルの弱さ(勤め人になると人間関係と責任へのプレッシャーで鬱になるキャパのなさ)を理由に妊娠を期にずっと子育てだけしているが、今以上にメンタルが不安定になって子供にきつくあたることがないようにするためでもある。
しかしどうしてもゆとりある暮らしとなるとお金が必要になるし、私も正社員なみに働くことができれば夫が感じているプレッシャーを軽くしてあげることができるのかもしれないと思うと、私は長い目で見て愛情がないようにも思えてくるし、私が働くことを当てにして夫が働かなくなるのも嫌だからこそ働かずにいる部分もある。
とはいえ現実はもう正社員でとってもらえるほど若くも健康でもなく、時間と労力に対する対価の低さがそれがまた働くモチベーションを下げている。
(雇う側、一緒に働く側からしたらお金を払うに値しないレベルなのかもしれないけど仕事は真面目に取り組んでいるだけに認めたくない)
あまりにも日本が不景気で一馬力で家庭を支えられなくなり、企業も社員を支えられなくなった今、子供を預けて家庭に親がいなくなる子育ては子供の自立心を育てそうだが、親に甘えられなかったことが将来に影響しないんだろうか?
私は家庭に母がいたけれどたくさん心に傷をおった。
家庭に親がいるかどうかよりも、どんな関わりだったかと、どんな環境であれ最終的に大事なのは本人の受け止め方なのかもしれない。
それを楽観的に変えるのがそこから何を学んだのか、何を得られたのかという視点を持つことなのかもしれない。
愛することとは何か、意味は理解できたけど、まだまだ感謝の気持ちが湧いてくるほど実感がなかったようだ。
期待値をとことん下げれば感謝しやすくなる。
頑張ることをやめれば周りがしてくれていることに気づきやすくなって自然とありがたいなーと思えることを実感したのに、まだ期待値を下げ、人を頼って生きることに抵抗があるようだ。
だってずっと耐えてきたしずっと頑張っていたから。
いい加減な人はおとがめなく、真面目な人ばかりが叩かれて、普通の人なら普通にできることができないというハンデーを持ちながら、それを理解されずに甘えだと思われ、努力不足と思われ、思い込まされ、体や心を壊してもまだ許されない。
そんな厳しいだけの風潮が嫌いだ。
自分で自分のことを認めることに取り組んでいるけど、人にも認められたい気持ちはまだ捨てることができない。