見出し画像

三木聡監督ワールドとは何か?『大怪獣のあとしまつ』(22)に見る作家性とオワコン

 庵野秀明が監督した東宝の『シン・ゴジラ』(16)は「もし本当にゴジラが今の日本に現れたら?」というシリアスな視点を従来の伝統的な怪獣映画に取り込み、怪獣映画の興行収入を大きく塗り替えることに成功した。『シン・ゴジラ』は日本の怪獣映画における一つの到達点と言っても過言ではないだろう。
 そして2022年5月13日には庵野秀明監督の最新作『シン・ウルトラマン』の公開が控えている。そのわずか三ヶ月前に公開されたのがシリアスで現実的な路線の東宝とは逆に、東宝パロディとも言えるコントのような怪獣映画、松竹の『大怪獣のあとしまつ』である。
 監督は『亀は意外と速く泳ぐ』(05)や『インスタント沼』(09)、ドラマ『時効警察』(06)で知られる三木聡監督。三木聡監督は「脱力系」と言われる独特の世界観で2005年頃に人気を博し、新進気鋭作家として注目されるようになった。自らの作品を「コントを集めた映画」と自称するように、彼の映画は彼自身が面白いと感じるコントの連続である。
 概ね三木監督が好むコントは、パロディ、モザイク、ゲロ、下ネタ、全裸、爆発、血飛沫といったギャグ漫画に出てきそうなネタばかり。物語も荒唐無稽な展開ばかりで現実的な世界とは無縁のファンタジーである。『大怪獣のあとしまつ』は、三木聡監督の作家性が凝縮された正真正銘の三木ワールド全開の映画だった。その意味で、三木監督の特徴を知っておくと『大怪獣のあとしまつ』も少しは見方が変わるのかもしれない。下記にその特徴をまとめてみた。

●三木聡監督作品の特徴

【その1】独特な価値観

政権批判や無能な官僚たちではなく、彼らは三木ワールドの住人

 『時効警察』(06)の第一話。オダギリジョー演じる霧島が「日曜日にメガネをかけるのはねぇ…イギリス人じゃないんだから」とつぶやく。それを聞いて首を傾げる主人公の女性。他の警察官もまた「目が見えなくなってきてね〜でも日曜日にメガネかけるなんて、イギリス人じゃないんだから」と話す。こうした意味はわからないが、クセの強い独特な価値観でクスリと笑わせるのが三木流の脱力系コント。
 『大怪獣のあとしまつ』でも三木節は炸裂していた。「それは付き合った女性にかけた金額をセックスの数で割るくらい野暮だよ〜!」「国民は臭いに敏感だからなぁ。怪獣の死体がうんこの臭いかゲロの臭いかを伝えなければいけない」といった独特の価値観で官僚たちが話し合うが、これは「無能な官僚達に振り回される人々」と解釈するよりも、意味不明な独特の価値観を持つ人々を笑うところだと理解し、三木監督ワールドの一つとして気楽に観た方が楽しめるはず!

【その2】くさい

 『大怪獣のあとしまつ』における最大の危機は、怪獣の死体から発するうんこの臭いが関東全域に広がることであり、その阻止に向けて動き出すわけだが、これは三木ワールドによくある展開。三木ワールドの人々は臭いに敏感だ。『インスタント沼』でも「便所臭い」「口くさい」「くしゃみが臭い」と平気に話題にするし、『時効警察』では「口くさいから外に出ようか」と言う警察官が出てくるし、なぜか三木ワールドの人々は臭いことを指摘するのが大好きなのだ。

【その3】下ネタ

 思えば『時効警察』のオープニングは、全裸で疾走する女性空き巣犯の映像から始まっていた。『音量を上げろタコ!』では絶大な人気を誇るミュージシャンが放送禁止用語を連発しながら問答を繰り返すネタが展開しているし、『大怪獣のあとしまつ』でも「陰毛でかけ混ぜた泡はよく泡立つのと同じか」とかキノコのモザイク映像がそれで、全裸にモザイクは『時効警察』だけでなく『音量を上げろタコ!』でも見られる展開だ。意味不明な独特な価値観で下ネタを言う。こうした下品で意味不明な会話こそ、三木ワールドの真髄と言えるだろう。

●オワコンとなった三木ワールド
 三木ワールドの常連である(監督の妻でもある)ふせえり、岩松了、笹野高史、オダギリジョーが出演する『大怪獣のあとしまつ』は、確かに下品で、意味不明で、コントの連続で、物語も荒唐無稽だ。『音量を上げろタコ!』でも「Deus Ex Machina!機械仕掛けの神が降臨する!」と意味不明な言葉たちが展開し、『大怪獣のあとしまつ』とリンクする。
   だがこれらは、まさに三木ワールドそのものであり、彼の世界観を楽しめるかどうかで評価は分かれるだろう。大半の観客が酷評していることを見ると、15年前に流行した脱力系の下品なコントが令和時代にはそぐわないことを示していると言って良いだろう。その意味で三木ワールドは俗に言う「オワコン」なのかもしれない。
 だが彼はブレることはないだろう。三木監督は元々テレビの深夜枠のプロデューサー出身。映画の撮り方や演出、脚本の書き方は全て自己流である。「なんでもあり」の精神と自由な発想を持つ三木監督だからこそなせる技であり、深夜番組枠出身で身についた彼独特の感性を変えることはない。三木監督はかつてこのように言っていた。

 「日本はバブル景気で、僕が担当していた深夜番組の枠なんて、視聴率がどうのなんて、うるさいことは言われなかったんです。放送事故さえ起こさなきゃいいから、みたいな感じで好き勝手にできた。それで、この時代に関わった人たちから、「僕たちの仕事にとって第一義的なものは、自分が面白いと思っていることを提示することなんだ」と、物作りに対する根本の考え方を学んだんです。
じゃあ、自分が面白いと思うことをどうやって表現していくのか。具体的な表現手法なんかは、全部自己流です。1989年から2000年まで担当したシティボーイズの舞台演出も、特に誰かに教わった、ということはないですね。お客さんの反応を見ながら、なんとなくこういうことなのかなと手探りでやっていったんです。
僕は、誰かのやり方をマネして何かをするのが苦手で。それはもう、昔からそうなんです。脚本の書き方も映画の撮り方も誰かに教わったわけではない。全部自己流。それが合ってるかどうかなんて、全然わかんない。でも、いいんですよ。自信持って「面白いです」って、言っちゃえば。
大事なのは、「変えないこと」なんです。たとえスベっても変えちゃダメ。ウケないことでも言い続ければ、聞いてる方が「あれ?(笑わない)自分の方が間違っているのかな」ってことになる。こっちが正論になるんですよ。」

 『インスタント沼』の主人公が「ゴミのようなものでも、人によっては宝物になる」と言っているように独特の価値観を持つ人々を見て笑う。こうした理屈ではない面白さが三木ワールドの正体だろう。だが、彼の世界観が世間の感覚とずれていることは間違いなさそうだ。3.11、コロナなど未曾有の自然災害に見舞われている昨今。多くの死が身近になっている時に、災害や不幸を、脱力気分で小馬鹿にして下ネタで消化するのには無理があったのかもしれない。
 『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』が注目を集めていることからも日本映画におけるディザスターは、シリアスで現実的な視点が求められているのではないだろうか。その意味で、三木ワールドはオワコンの危機を迎えている。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集