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「きみの色」感想とちょっとした解説 ~新海誠監督との対比~

こんにちは。
ツチノコです

この間、山田尚子監督の「きみの色」見てきました。
今回は、それに関する感想と、独断と偏見の解説をお届けします。


感想

第一印象としては、美術で言うところの、印象派の作風に近く感じました。

印象派では、はっきりとした絵でなく、感覚や雰囲気を伝えるために、ぼんやりとした作風が確立されていきました。

この、「きみの色」でも同じような試みがされており、主人公の設定から、物語の進み方、演出方法などが、それを物語っています。

しかし、当たり前ですが、上記のような手法をとることで、映画としての演出の論理性やつながり、そういった知的な部分はほとんど失われていたのではないでしょうか。

次に感じたことは、この映画が極めて女性的な感覚をもって作られた、ということです。

見てみればわかるのですが、登場人物の男子の色欲の無さや、発言の幼稚さがすごく目立ちます。

筆者は男性ですので、そういった点でも違和感を感じざるを得ませんでした。

しかし、そのおかげというべきなのか、映画全体のまとまりがとてもよかった印象もありました。

頭からケツまで雰囲気が変わらない、そして映画を見ている最中にずっと、山田監督という存在を感じ続けられる強みはあります。

また、新海監督の作品に共通するような、現実を過度に美しいものとして捉える風潮を、およそ受け継いでいました。

何処を切り取っても様になるような意識と、映画的にかっこいいかどうかを確認し続ける意識が忘れずに監督の中にあり、それが新海監督と山田監督に共通している大きな点であるでしょう。


ちょっとした解説

ここでは、具体例を挙げてみます。

先に言ったように、新海監督と山田監督は大変近い映画観を持っています。

しかし、新海監督は「知的」であり、山田監督は「感性」であるのです。

では、新海監督がなぜ「知的」なのか?

新海監督の作品の一つ、「天気の子」を例に挙げてみましょう。

ある、途中のシーンに出てくる歌舞伎町のラブホ街の景色があります

この景色は、静止画として何回か使いまわされるのですが、ただの使いまわしではないのです。

その場面ごとの主人公の心情、他キャラクターとの兼ね合い、これから起こるストーリーの展開の暗示など、様々な状況に合わせて、光が付いたり消えたり、はたまた雨が降ったり晴れたり、そういったように、「景色」を一種の「象徴」として捉えているのです。

ですから、演出としての論理構造を持つことができ、それが観客に対して、効果的に働くのです。

それが、新海監督の「知性」です。


それを踏まえて、山田監督の「感性」の意味が分かります。

山田監督は、新海監督と同じく、感覚描写主義的な映画論を持っていますが、その感覚描写を、映画一本を通じて同じクオリティで作りきったところにすごみがあります。

例えば、「きみの色」のクライマックスのシーン、文化祭でのライブの場面では、曲の間に、踊り・木漏れ日の木の静止画などの印象的で、感覚的なものをカットで挟みます。

そして、ここに挟まるカットは、論理構造を持ちません。

その場、その瞬間の生々しさや、生き生きとした様子を映し出すため、挟まれたカットであるため、それらが前後のシーンでの象徴的利用は無いことがわかります。


これらのことからわかるように、新海監督と山田監督には大きな差があるのです。

感覚描写を追求する山田監督と、感覚描写の中にも論理構造を持ち、従来の映画的手法を利用する新海監督。

それぞれの凄さがあり、それぞれの美しさがあるのが、この比較で分かったのではないでしょうか?


おわりに…

私は当初、「きみの色」を軽く見ていました。
どうせ、最近のアニメでよくある、トラックにはねられたら、女の子に囲まれた世界でうひょうひょ、みたいなものかと。

しかし、そんなことはなく、大変すばらしい作品でした。

今回紹介したものはごく一部に過ぎず、他にも大変面白い要素が詰まっていますので、是非是非「きみの色」をご覧になっていただきたい。

また、既に見てしまった方も、考察を書いて、教えてください。

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他の記事も読んでいただけると幸いです。
(これが私のnoteの最初の記事なのですが…)

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