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リップマン著「世論」⑤ステレオタイプと偏見

われわれは自分たちの目が見慣れないものは見ないでしまいます。
ステレオタイプと異質のものは排斥され違うものは目に入っても見えないのです。
われわれは知らず知らずのうちに自分の哲学に合致するような事実に強い印象を受けるのです。


したがってステレオタイプは人間の好みを担わされており、愛情に満たされ、恐怖、欲望、強い願望、誇り、希望に結びつけられています。ある特定の、ステレオタイプを喚起する事物があれば、それが何であれそのステレオタイプにふさわしい感情によって判断されます。
われわれは一人の人間を調査してから悪い人だと判断するわけではなく、その人を見るときすでに悪人として見ているのです。
人々は偏見を持つということです。
人々の思考と行動の質の如何はそうした偏見が好意的なものであるか、つまり、ほかの人々に好意的か、ほかの考え方に好意的かどうかにかかっています

 

社会の道徳規範そのものがステレオタイプなのです。
われわれの規範はわれわれが何をいかに認識するかについて大きな決定権を握っています。
ひとつひとつの道徳規範の核心には、人間性を描いた一枚の絵があり、一枚の宇宙図があり、一つの史観があります。
規範に含まれるさまざまな法則は(思い描かれているような)人間性、(想像されているような)宇宙、(解釈されているような)歴史に適用されます。

 
ある人間がある規範を採用するとき、彼はその規範が要求するような人間性を示すことになります。
さまざまな諸規範がきわめて微妙にきわめて広く世論の形成にかかわっています。
一つの世論は一群の事実に対する一つの道徳的判断をなしているというのが通説ですが、一つの世論は、何よりもまず道徳や規範を通して見た諸事実の一つの見方なのです。
つまり、われわれがどのような種類の事実群を見るか、どのような光りをあててそれを見るか、その大方を決定するのはわれわれの諸規範の中心にあるステレオタイプのパターンなのです。


自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通してみた一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければわれわれは対立者に対して真に寛容になれません。


その習慣がなければ、自分自身の描くビジョンが絶対的なものであると信じ、ついにはあらゆる反論は裏切りの性格を帯びていると思い込んでしまうでしょう。
人々はいわゆる「問題」には裏表があるということは進んで認めますが、自分たちがいわゆる「事実」とみなしているものについては両面があることを信じていないのです。
「事実」の両面性が信じられるようになるのは長い間批判的な目を養う教育を受けて、社会について自分たちがもっているデータがいかに間接的で主観的なものであるかを十分に悟ってからのことです。


執筆者、ゆこりん

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