『意味のないエッセイ①』夏の幻影
自分の感性が世のなかに通じないことはわかってはいたけれど、
普遍性に歩み寄ることもできず、かといって個性を確立することができず、
まるで子供が初めて覚えたスキップをするように、ぎこちないものを生産している。
それでも子供は陽気にコンクリートから草むらへ、草むらから土手へと生命体の秩序を壊しながらスキップ行進する。
片手に雑草を持ち、次々に羽のある虫を攻撃。
まだ言語化できない、支配欲のあらわれ。
雑草を振り回す。人には聞こえない自然界の断末魔。
僕は子供ではないけれど朝方良く散歩をする。
今日は何をしようか、何を考えようか、何を書こうか、何を学ぼうか、何を鍛えようかを考えながら。
散歩コースは決まっていて、Science worldとGranville Islandの間にある舗装された川沿いの道が僕のお気に入りだ。
そこまで行くとマリファナの匂いもしないし、徒なクラクションも響かない。
聞こえるのは20人くらいで漕ぐカヌーの掛け声とか、
海賊船を装った小型船に乗ってはしゃぐ子供たちと、海賊を演ずる大人の声。
船を持った人たちは川の中途半端なところに船を停泊させて、船首付近の椅子に腰かけて優雅に一日を祝福する。
彼らの背景には排気ガスや山火事の影響で霞みがかったダウンタウンがのっぺりと広がっていて、まるでAIが描いた絵のよう。
塩臭い海風と海洋生物の腐った匂いにさえ慣れてしまえば、『理想的な朝の散歩道』といえるし、誰にとっても完璧な時間だ。
僕は適当なベンチとか階段に腰をかける。
そこで目の前の光景を何かを編むように慎重に眺め、長くも短くもない人生を考えるのがお決まりだ。
たまに、スターバックスで5ドルのアイスカフェラテをショートサイズで頼んでお供にしたり、なんだか気が塞ぎこんでいるときは、2本くらい煙草を吸う。
無謀にも物を書き始めてから、文学についてもぼんやりと考える。
書いてみると、稚拙ながら自分がある文学に傾倒していたことに気づいて、
自分が書きたいものなど、本当はないことに気づいた。
カシャ、と3ドルくらいで買ったぼったくりみたいなライターでタバコに火をつける。
煙が肺を慰めてくれた。ついでに1つの黄昏まで。
波と陸の境界にある手すりに寄りかかって何かを叫ぶ、らりぱっぱの外国人と僕が書くものは似ている、と思う。
波が近くで防波堤にあたる音がする。塩臭い風。鳥の影がよく僕を覆う。
彼らだって叫びたいことが明確にない、輪郭だけを吐き出す。
僕も書きたいことはない、でも黙ってはいられないってだけ。
ボーダーコリーがお得意に僕を見定める。
飼い主は困ったように笑ってリードを轢く。
僕は煙を吐く。
日本にいたときより、何千倍も密度濃く人生を考える。
そんなときにいつも、サンテグジュペリの飛行機が僕の目の前に飛び込んでくる。
着陸するには十分な川幅、ラダーを調整、エルロンもいじけていない。
機械の命の振動、僕の口からでるのと同じ煙。
波を割いて、着陸、サンテグジュペリがよろしくと僕に手を振る。
きっと勘違い。でも彼の本は僕にしか手を振らない。
誰だってそうだ。
サンテグジュペリもサリンジャーもヘミングウェイも、ジッドもチェーホフも、ヘッセもマッカラーズもみんな僕にしか手を振らない。
誰にだってそうだ。
波に揺られ、不安定なサンテグジュペリが何か言いたそう。
迷って、バンクーバーの宙をぐるぐる飛行している僕を試していそう。
彼が口をパクパクする。
きっと彼が何やら言い出す前から、彼の言いたいことがわかっていた気がする。
気づけば、サンテグジュペリの飛行機は消えていて、
向こう岸にいたセネカまでいない。
ロバート・サウジーの詩が適当をいいやがった。
English bayに流れる川には、
季節を巻き戻そうと必死にオールを漕ぐカヌーの列と、
海を渡る自転車みたいな乗り物を漕いでいる老夫婦しかいなかった。
海賊船はとっくに宝物をみつけたのかもしれない。
人びとの営みが去来している。
さっきのサンテグジュペリとセネカは幻影だったのか。
夏が落としてそのままにした、憧れと、幻影だったのか。
波はどこかに打ち寄せられて、何かに満たされたように引いていく。
その先にも夏の幻影がちりばめられている。