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『愛を耕すひと』 なにを耕していくのか?

マッツ・ミケルセン主演の『愛を耕すひと』は、邦題と予告編から予測されるのとは別の方向へぐいぐいと進んでいく人間ドラマで、18世紀のデンマークを舞台にしながらも現代を生きる私たちに、良くも悪くも人間の変わらなさを見せつけてくる。あんたの人生に愛が育つ土壌はあるのか? そう問われもする。いやあ、ははは、と笑って誤魔化したくなる。荒れ地での生活をいかに豊かにするか。愛でしょ。

映画『愛を耕すひと』は2025年2月14日(金)から公開です。


『愛を耕すひと』あらすじ

18世紀のデンマーク。退役軍人のルドヴィ・ケーレン大尉は、耕作には向かないとして見捨てられていた荒れ地の開拓に挑む。痩せた土地でも収穫可能なジャガイモを育て、いずれは開拓の功を認められ、貴族の称号を授かることが彼の夢だった。

貧しいケーレンには人を雇う余裕もないのだが、単身で開拓と生活のすべてを賄うことはできない。非道な領主フレデリック・デ・シンケルのもとから逃げ出した使用人夫婦を、行き場がないという彼らの事情も利用しつつ雇い入れ、本格的に開拓が始まる。

荒れ地を開拓する者がいるという話はデ・シンケルのもとにも届く。もしそれが成功すれば自身の権力にも影響が出ると考えた彼は、荒れ地の所有権を主張し、ケーレンの試みを止めようと邪魔してくる。

そんななか、タタール人の少女アンマイ・ムスがケーレンの家に暮らすようになる。肌が黒く「不吉」とされて居場所を失った少女と、ケーレンとの距離を縮めた使用人の女性アン・バーバラとの3人での生活は、次第に家族そのもののようになっていく。

そうして歳月が過ぎてゆき、ジャガイモの収穫にも成功するのだが、デ・シンケルの執拗な妨害はエスカレートしてゆき、皆の運命が思いがけない形で変転していくことになる。

愛と距離を置いてきた人たち。

本作は史実を基にした小説の映画化で、デンマークの歴史に疎いというか無知な私には新鮮にも映ったし、映画の筋立てはクラシックなところもあって落ち着いて観ることもできた。

特に前半は文芸作品の映画化という趣が強く、少ない登場人物、身分によって規定される人生、貧しいなかで時折きらめく希望、容赦ない運命の訪れ、といった要素が詰将棋のように一手、一手を重ねては、引き返せないほど奥深くへと突き進んでいく。

マッツ・ミケルセンの存在感はさすがで、彼が主人公を演じていることでいくらか安心して観られる、という側面もある。つまり、この人ならこの過酷な運命も乗り越えていけるだろう、という安心感だ。

また、「主人と使用人」という関係だったケーレンとアンが、ひとりの少女を紐帯として次第に家族の様相へと移行していくところも、なるほど、と納得させられた。本作は長いスパンを描く物語なので、どうしたって端折る部分が出てくるわけだけれど、それでわかりにくくなるところはなかった。

ケーレンもアンも「親密な愛情」と距離をおいて生きてきた人物らしい身勝手さを、なかなか手放すことができない。虐待を受けた人や動物が他者の愛情に戸惑うように、本作の登場人物たちも愛をどう扱っていいかわからず持て余しているのだが、過酷な日々の中で一歩ずつ歩み寄り、互いを認めていく。端折られた部分は確かにあるのだけれど、そのせいで説得力を欠くという事態には陥らず、疑似家族としての成り立ちとその絆の深まりには胸打たれるものがあった。

悪の変わらなさ。

主人公たちの描かれ方の繊細さにくらべると、デ・シンケルの悪役としての振る舞いはわかりやすすぎるかもしれない。悪役はそういうものだ、といえばそれまでなのだけれど。

自分がぼんくらであることを自覚もしているし、周りの人間がそういう目で自分を見ながらも、立場の都合上、領主として持ち上げてくれているということも重々承知していて、それでもなお暗愚なままにしか生きられない。哀れなデ・シンケル。

作中のデ・シンケルは擁護の余地もないほど悪辣を重ねる。メタ的にいえば観客のヘイトを集中させる装置だ。このデ・シンケルを巡る物語が現代の社会問題へまっすぐにつながってくる。

デ・シンケルは自身の立場を利用して使用人の女性たちに片っ端から手を出しまくっている。気に入らない奴に対しては拷問も厭わない。彼のもとから逃げたアン・バーバラも、性暴力の被害者だった。そうしたエピソードはまさにいまの時代に表面化しているものであり、先に「現代の社会問題」と書いたけれどそれがちっとも「現代の」ではないことに改めて気付かされる。はるか昔から同じことが繰り返されてきた。その苦渋に押し潰されてきた人々がいた。21世紀も1/4が過ぎようといういまになって、ようやく個別の問題から公のシステムの問題として議論されるようになった。

物語の後半、アンの復讐劇が描かれる。主人公であるケーレンはその流れに手も足も出せない。このこともまた示唆的で、当事者たる女性が自ら声をあげ、行動に出るしかない状況のやるせなさを感じた。

先に、デ・シンケルの描かれ方がわかりやすすぎる、と書いたが、彼の人間性を掘り下げると「彼にも彼なりの事情がある」という説明になってしまうから、シンプルな描写にとどめたのかもしれない。もちろん彼だって生まれたその日から悪人だったわけではない。解きようがないほどに絡まった立場に最初から置かれたのだろう。しかしそれが何かを正当化するはずもなく、現代人たる私たちは、デ・シンケルの生き様に、いま世の中に起きている横暴を重ね見ることになる。

18世紀を舞台にしているとはいえ、描かれていることは普遍的かつ、極めて現代的なのだ。

なにを耕していたのか。

作中では、退役軍人という設定を活かしてケーレンが人を襲う場面もある。敵対勢力に夜襲をかけるのだけれど、正直、その場面でテンションがあがった。あ、そういうところも描く作品なんだ、と観る側のチューニングもちょっと変わる場面だった。

人が簡単に死ぬ。人がなかなか死なない。そのどちらも同じトーンで映される。残酷というか、野蛮というか、医療もまだ発達していない時代、どれだけのことが「運命」で片付けられていたか。その「運命」に抵抗するのがいかにたいへんだったか。

『愛を耕すひと』という邦題について、映画を観終えたときには違和感をおぼえた。果たしてそのような内容だったろうか、と。物語は、特に後半、かなりハードな展開になっていったこともあり、『愛を耕すひと』だと、ちょっとヤワなんじゃないかな、と。

原題は「Bastarden」で、これは英語の「Bastard」と似た意味合いだろうかと思い検索してみたら、デンマーク語の「Bastarden」には「非嫡出子、私生児」の意味しかなくて、「ろくでなし」的な意味は含まれない、という情報も見かけた。英語のタイトルは「The Promised Land」で、聖書の文脈も含むのだろう。そして原作の英題は『The Captain and Ann Barbara』らしい。アン・バーバラ、確かに映画でも主人公格だったもんなあ。

話を戻して、鑑賞後の感想としては「愛を耕すひと」というより「愛を耕せなかったひと」「愛を耕そうとしたひと」という印象が強かった。数日、そんなことを考えていて、ああ、そうか、と気付いたのは「耕す」と「収穫」は違うというあたりまえのことだった。

農地だって、一度耕して終わりではない。人の関係性においても不断の努力は必要で、今年収穫できたからといって放置しておけば翌年には何も生らないように、「この人からは既に愛を得ている」と高を括ってしまえば、恋人や家族に見捨てられもするだろう。

耕したのは「愛」というよりは、それが育つための土壌だった。ケーレンは人を愛することを知らぬ荒れ地のような男だったが、開拓に挑むなかで思いがけず愛を育むことになった。そしてまた、ときに愛を手放すことこそが愛の伝達になるということも知った。

正直なところ、後半の展開はドラマチック過ぎるのではと思わなくもなかったのだが、そうしたドラマこそが人の心に響き、根を張り、観た人たちがそれぞれの暮らしの中で愛をつないでいく助けにもなる。地味、ではなく、滋味にあふれた作品、と言ってもいい。荒れ地みたいな毎日を生きる現代人に必要な滋味が、ここにはある。

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