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『海の沈黙』 合わなくても、好きなのかも。
巨匠・倉本聰が長い歳月をかけ構想した物語が映画に。錚々たるキャストを揃え、令和の世にあっては異彩を放つ作品に仕上がった『海の沈黙』は、観る者にとっての「美」とはなにかを問いかけてくる。結論を先に言えば、僕には合わなかった。その理由はいろいろあって、批判も容易、なのだけれど、ちょっと視点を変えれば、なるほどこれが「美」の在り方かと思わせられもする。
映画『海の沈黙』は2024年11月22日(金)から全国公開です。
『海の沈黙』あらすじ
日本を代表する画家の田村修三(石坂浩二)は、自身の作品も含まれる大規模な展覧会のレセプションに訪れた際、展示作品のひとつが自身の作ではなく贋作であると気づく。その作品は長野県の美術館が保有していたもので、館長の村岡(萩原聖人)は確かにそれを田村の作品として購入したと訴えるが、作者本人が否定した以上、展示を続けるわけにはいかなくなる。
村岡は田村の妻・安奈(小泉今日子)に「たとえあれが贋作であっても、自分はあの絵にいまも惹かれ続けている」と訴える。
実はその贋作を手掛けたのは、田村のかつてのライバルであり、安奈の恋人でもあった、津山竜次(本木雅弘)が描いたものだと判明する。安奈は津山に会うため北海道へ飛ぶ。再会を果たした竜次は病に冒されており、残りわずかな時間を賭して最後の作品を仕上げるため、文字通り命を削ってキャンバスに向かう。
初めての倉本聰作品でして。
僕は倉本聰を通らず生きてきた。身近に『北の国から』ファンを公言する人が何人もいて、観たほうがいい、とか、ビデオ貸してやろうか、といった言葉を掛けられたことも一度や二度ではない。
そういう点で、今回の作品もあまり興味を持てなかった。自分はこの作品の想定しているターゲットではないのだと思っていた。
しかし作品のあらすじを読んで、俄然、興味が湧いた。これまた個人的な話だが、贋作についてはとても興味があり、何冊かその手の史実を書いた本も読んできた。贋作で話題にのぼるのは、「偽物と知らずにつかまされた人物」が多く、つまりは「被害者」であって、今回の映画でいえば萩原聖人演じる美術館長がそれにあたる。「贋作を描かれてしまったオリジナルの画家が登場する」という話はあまり読んだことがなかったので、惹かれた。
実際、映画の冒頭近くで描かれるそのくだりは、すごくわくわくした。石坂浩二演じる画壇の大家・田村は、自身の代表作である「漁村シリーズ」を文科省大臣とともに観ていく途中で、シリーズを成す一作の「落日」に目を奪われる。その場は平静を装ってやりすごすのだが、レセプションが終わったあと、少数の関係者だけを呼んで、その絵の前で「これは贋作だ」と告げる。自分は使わない画材が用いられていることを指摘し、さらに「自分にはこの海の表現は描けない」と敗北宣言ともとれる言葉を吐く。
関係者たちから「展示作品のひとつが贋作であることを、すくなくとも会期中は伏せておいてほしい」と頼まれたにもかかわらず、田村は芸術家の良心(あるいはプライド)に従って、贋作の存在をあっさり公表する。すでに新聞には高名な美術評論家による紹介文が掲載されており、そこで「漁村シリーズ」についても絶賛されていることに対して、田村は「それが贋作の『落日』を含む評価だとすれば、自分の負けだ」といった意味の言葉を返す。
このあたりの流れはとても好きで、この作品における人間は、田村ただひとりだと、鑑賞後そう思った。
さて。映画のレビューではネタバレをしたくないと考えていて、今回もそうしたいのは山々だけれど、これ以上の感想は作品の展開に触れずには書けそうにない。
正直に言うと、僕にはこの作品は合わなかった。いくつかの展開には疑問がついてきたし、呆れる場面も少なくなかった。その点を隠して書くのも不誠実なので、ちゃんと言葉にする。
以下、終盤の展開まで触れるので、ご注意ください。
これは願望ではないのか。
「長年構想してきた」という触れ込みが関係しているのかもしれないけれど、この作品は願望を充足させるために作られたかのように思えた。どんな願望かといえば、男の夢、あるいは、こういうふうに人生を終わりたい、というものだ。
本木雅弘演じる津山竜次は恐るべき才能の持ち主で、周囲を気遣うよりも自己の芸術を選ぶ男でもあり、その傲慢さゆえ、若い頃に画壇から追放されてしまう。その後、彼は贋作に手を染め、それを生業のひとつとして生きている。さらには、漁師であり彫師でもあった父親を真似るように、竜次も隠れた画家として活動する傍ら、小樽の女性に刺青を彫り、その女性をヨーロッパの富裕層の前に連れていって裸にさせ、刺青の生きたカタログとして利用していた、といったことも語られる。
物語は、なぜ彼が贋作をつくりつづけたのか、そして「落日」の贋作を描いたのが本当に竜次なのか、といったあたりを、解くべき謎として提示している。これに関しては美術館長の村岡が物語の開始早々に答えを口にしている。芸術は作品そのもので評価されるべきであって、誰が描いたのかという名前によって評価が変わるのはおかしい、と。田村が贋作に敗北を認めたのも、村岡の意見と同工異曲だろう。
その考えは、作中、何度か言葉を変えて語られる。名もなき作家の作品にも素晴らしいものがある、とか。ラストシーンでは竜次のナレーションでも語られる。さながら模範解答を聞かされているようで、そのわかりやすさも、僕は好みではなかった。結局のところそれだって一種の権威付けに思えるからだ。
男の夢
映画終盤、竜次は制作途中のキャンバスに向かって派手に吐血する。世界をまたに贋作を売ってきたことからインターポールに追われる立場ゆえ、おおっぴらに救急車を呼ぶこともできないから、彼を支えるスイケン(中井貴一)が中心となり、地元の仲間たちの助けも借りながら、竜次は懇意の医者のところに入院する。
おなじころ、東京では村田が受勲し、その祝賀パーティが開かれようとしている。安奈も参加するため準備を進めているのだが、そこにスイケンから電話がかかってきて「今夜が峠です」と告げられると、彼女はすぐさま北海道へ飛ぶ。安奈と夫の関係はとうに冷え切っており、かたや竜次はかつての恋人で、おそらくは唯一人心から愛した男でもあり、といったようなことが背景にあるので、彼女の、立場を放り投げた行動も理解できないわけではない。
しかし、これはいくらなんでも、男の夢すぎやしないか。こんな局面で竜次を選ぶのは、彼への慕情ではなく、田村への意趣返しくらいでなければ(そこは含みとしてあるのだろうけど)。だけど安奈は大真面目に病院へ向かう。30年以上も音信不通で、再会もほんの数分くらいのものだった相手のために、新千歳空港からタクシーで小樽まで飛ばすのだ。昔の女は俺のこと今でも好き、という男の側の夢想としか思えない。
現実の入る隙
竜次の生活に関してはもうひとつ、男の夢っぽいことがある。清水美砂演じる牡丹という女性のほぼ全身に刺青を施してきたのだけれど、その後釜として新たに、若いあざみ(菅野恵)に刺青を彫ることにする。まだひとつも彫り物のないまっさらな肌を、竜次は「いい」と評価する。その背中に睡蓮を彫るつもりで準備を進めるのだが、しかし、結局はひとつの刺青も施さないまま、彼は息を引き取る。
「モネの睡蓮にも劣らない睡蓮を背中いっぱいに描くつもりだった」と病院のベッドで竜次はスイケンに打ち明ける。しかしそうはしなかった。できなかったわけではなく、「彫らない」ことを選択したのだという。さらには「彫らなくてよかった」と満足げにいう。
そうだろうか、と僕は首をひねった。牡丹には、あれやこれやと彫りまくってきたのに。それを富豪たちに披露してきたのに。あざみという女を見つけたからといって牡丹に手切れ金を積んで、その後、牡丹が身投げしたのに。そんなことをやってきた人が、若い女をきれいなままにしたから正しかったとか言っても、身勝手なだけではないのか。
芸術家なんて人でなしですよ、という話ならわかる。でも、そうは描かれていない。
きわめつけは、竜次の末期(まつご)である。彼は病院を(おそらくはスイケンの手伝いのもと)抜け出す。同じころ、あざみはバーのカウンターで竜次と言葉を交わしている。しかしその会話は白昼夢で、竜次の仲間たちがバーに飛び込んできたことで夢は覚める。竜次が病院から消えたことを聞いたあざみは、仲間たちとともに竜次のアトリエへ急ぐ。長い廊下を竜次の名前を叫びながら走るあざみたち。ドアが開かれ室内へ飛び込むと、そこにはスイケンに抱えられた竜次の姿がある。病院から脱走した竜次は最後の命を使い果たして、作品を仕上げたのだった。
生涯最後の作品を大傑作と仕上げて死ぬ、とか、心をわかりあえている仲間たちに囲まれる、とか、かつて愛した女が自分のために戻ってきてくれる、とか、どれも願望ではないのか。
安奈には北海道へ飛んでほしくなかった。あざみにはちゃんと刺青を彫ってやってほしかった。病院で息を引き取ってもいい、小樽までやってきたインターポールに逮捕されたっていい。でも、そのどれも、物語から排除されている。現実なんか入ってくるなと言わんばかりだ。
だから、僕には合わなかった。
なぜそっちじゃないのか?
人間にとって「美」とはなにか。それは畢竟、個人の中にしか見いだせないものだろう。だから、竜次にとって、あるいは倉本聰にとっての「美」は、この作品に描き出されているのに違いない。
竜次が生涯のテーマとしたのは、水難事故で亡くなった両親への愛だ。幼い竜次は、夜の海に投げ出された両親が砂浜の焚き火を目印に泳いで帰ってくるに違いないと信じていたが、ふたりは帰らなかった。竜次は最後まで、そのときの焚き火を描くことに心血を注いだ。
安奈を失ったことは? 牡丹を死なせてしまったことは? たいした問題じゃなかったのだろう。竜次はひどい男だ。死んだ親以外の人間のことなんて、きっと、なんにも思っていない。
話は田村に戻る。贋作を前に敗北を認めた男。妻と別れることなく若い女とのあいだに子を成す男。作中、最も成功した人物でありながら、最も矮小に描かれる男。こっちを描くことだっていくらでもできただろう。村岡や牡丹を深く掘り下げることだってできただろう。
なぜそっちじゃないのだろう?
これは勝手な憶測だけれど、そんなの、リアリティはあるかもしれないが、いまではそっちのほうがありきたりな物語になってしまうということかもしれない。あんたら現実を観にきたのか? 違うだろ。映画を観に来てるんだろう? そう問われたら、それは、そう。
不出来な贋作
僕のように倉本聰を知らずに生きてきた人間が、この作品を観て眉をひそめるだろう。いまの時代にこんな、とか、女性を馬鹿にしている、とかいった批判は容易に出せる。でも、きっと、良識に沿って作品をつくることのほうが「美」に反するのだ。良識が「美」だと思うなら、そっちを見つめていればいい。この作品からは、というか、この作品を映画としてつくりあげたという信念の強さから、そのような言葉を感じる。
大袈裟に言うなら、この映画は、いまの人々の暮らしこそが出来の悪い贋作だと告発している。
男の夢、男のロマン、そこに俺の思う「美」が存在する。作者が変われば美しさが損なわれるのか。時代が変われば美しさが損なわれるのか。そうじゃないだろ、と言われている気がする。
先にも書いたとおり、僕には合わなかった。それだけのことだ。僕の思う「美」とは違う。それだけのことだ。
美術館に赴いて、展示された作品群を見ていって、そのときにも好きなもの、強烈に惹かれるものもあれば、まるでピンとこないものもある。ピンとこなかったからといってその作品の価値が落ちるわけではない。
自分には合わなかったといいながら、これだけの文章を書いている。ひょっとすると好きなのか。好みと真逆だからどきどきする、みたいなものなのか。