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映画『違国日記』 夜の向こうの美しいなにか

なにが嫌いかよりも、なにが好きかでその人となりは見えてくると常々思っているのだけれど、映画『違国日記』は僕にとってはたくさんのいろんな「好き」が並んだビュッフェみたいな作品で、ここも好き、そこも好き、これも好きじゃーん! というテンションを誘発される作品でした。レビュー本文では触れてないけど、バンド演奏シーンも最高です。
大島依提亜さんと中山隼人さんデザインのパンフレットもすばらしく、これはぜひ実物をご覧になっていただきたいところ。


十代の忙しさ

原作が槙生なら、映画は朝に、比重の置き方がそんなふうに調整されている印象を受けた。

原作を「槙生の物語」と感じたことはなかったけれど(槙生と朝を軸とした群像劇として読んでいた)、映画を観たあとだと、そんな読解ができるようになった。

それは多分、自分が大人の、親の立ち位置に生きているから、というのも関係していて、映画はとにかく朝の捉え方が素晴らしく、どの場面も彼女がまさに今を生きて、成長していることを教えてくれるし、なにより美しい。おおげさな言い方になるけれど、この子が生きているだけで世界が美しくなる、という気持ちが呼び覚まされる。

とりたててどうということのない場面、たとえばファミレスで祖母をまじえて槙生と朝の3人で食事をしているところで朝は普通に食べて、そして槙生がたじろぐような発言をこともなげに発する、そんなところに彼女の若さが垣間見える。若さっていうのは強さでもあるし、無頓着さでもあるし、忙しさでもある。

中学の卒業式を最低の状況で離脱することになった朝だけれど、親友のえみりとの和解を挟むことで高校生活は幾つもの意味を帯びてリスタートとなる。新しい友人たちが少しずつ見せてくる個々の事情、考え、思い、悩み。その大半が断片的に描かれるのだけれど、それは誰しもが経験することで、友人やクラスメイトの抱えるものについて深く知ることもあるものの、表面だけ、あるいは噂だけで流れていくことのほうがずっと多い。「自分だけが苦難を背負わされてるんじゃないんだ」という事実に、すこしずつ気づいていき、世界のきつさを間接的にも味わい、その一方で自分がわくわくできること、心が弾むことを見つけたら最強な気分にもなれて、この世との手のつなぎ方を知っていく。だから十代は忙しい。

跳躍した先にいる人

朝にくらべれば、槙生のいまの生活は、基本的には自分に関することで形成されていて、苦悩もあるけれど、そのほとんどが自分の選択によるものだと彼女は理解しているし、覚悟も決めている。手に負えることを手元に、手に負えないことは助けてくれる人に頼りもする。創作に生きる人だから、手に負えないことは物語だけで精一杯なのかもしれない。

朝は、まだ、そうはなっていない。幼い朝は親との死別や叔母との同居という大問題のほかにも、数えきれない問題に日々、その身と心を晒して生きている。彼女の友人たちもおなじだ。自分の根幹にぴたりと張り付いて剥がすことのできないなにかをまだ把握できず、自分との向き合い方もつかめていない。無防備で、無邪気で、臆病で、しなやかで、そういう時代を生きている。

朝の友人たちのエピソードは、すこし唐突だったり、ダイジェストっぽさがあったり、ひとりの人間を描くには不足している部分もあるものの、実際の人間関係もおなじくらい断片的だ。あのときあの人が言ったことは、なにを意図していたんだろう。答えのないままの記憶が誰にもあって、その「わからなさ」こそが人物を印象づけていく。

えみりとの体育館での時間。千世との屋上での会話。三森との演奏直前のやりとり。そのどれにも結論はなくて、だけどきっと、彼女たちのこの先の生活のなかで思い返すことになるだろう瞬間が切り取られている。思いきって跳躍したあと、着地点に朝がいたことを彼女たちは思い出すだろうし、朝もまた、友人たちの決断に勇気づけられる日がくるだろう。

映画は、朝のためにつくられた、といってもいい。早瀬憩を絶賛する声も多く、そのすべてに僕も賛同するけれど、それはもちろん大人たちが全力で撮ったものだ。撮影も美術も照明も、全員が一丸となって、この短い時期にしか撮ることのできない朝という人物を絶対に撮ってやるんだという気持ちで臨んだのだろうことが端々から伝わってくる。

呪いをかける側にいた

原作を読んでいたので、実写化が発表され、槙生をガッキーが演じると知ったときは、むむむ、となった。でも映画を観て、ぜんぜんむむむではなかった。ほかの大人キャストも、この世界ではこういう人なのだというところに落ち着いた。

大人の物語にはほとんど時間を割いていない映画版だけれど、大人たちの抱えたものについて感じられる程度には描かれている。槙生と姉の関係の描かれ方は原作にくらべてしまえば物足りないかもしれないけれど、映画はそのためのものではないと明らかに宣言している。「わかりあえなくても寄り添える」という姿勢は、槙生と朝だけではなく、槙生と姉、あるいは槙生と母にもあてはまるものだ。

映画が始まってわりとすぐに、ガッキーが槙生を、という考えを反省もした。槙生は小説を書くことを姉から貶されて、それでもやめなかった。僕も含め、世の大勢が「ガッキーが槙生を」という気持ちを持っただろうけれど、鑑賞後、その状況がもしかしたら新垣結衣と高代槙生という人物の重なるところだったのかもしれない、と思えた。だってガッキーでしょ、といつまでも、あるいはこの先しばらくは、言われるのかもしれないけれど、妹が書いた作品をゴミ箱に捨てる姉と、ガッキーでしょと断じることと、どう違うというのか。というわけで、僕は映画版の槙生も支持するし、色眼鏡をかけて観ていた自分を反省もする。

大人だからさ

人は誰しも傷の上に立っていて、若い子がおなじように自分だけの傷の上に立つ日がくることも大人は知っていて、その道を避けることはできないのだから、倒れたときにも見守るのがせいぜいで、助けたつもりが余計なお世話になったりもするし、若い子が立ち上がる姿を見てこちらが勇気づけられてしまったりもする。

そんなふうにして、遠く離れた違う国にもそれぞれのタイミングで朝は訪れるし、夜を通り越したそのあとでまた新しい美しいなにかを見出すこともできる。この、映画という形でしか捉えられなかった時間も、そんな美しいもののひとつなのだ。


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