呉明益『自転車泥棒』を読んで

 呉明益さんの長編『自転車泥棒』をもう一度読みたくなって、買い足した。単行本は持っているし、何度か読み直しもしたのだけれど、単行本を持ち歩くのはちょっと骨なので、文庫本を買い足した次第です。

 訳者の天野健太郎さんが既にこの世を去ってしまっていることをあらためて思い、哀しみとともに、この作品を訳してもらえたことを嬉しくも思う。

『自転車泥棒』は単行本が出たころに書評を書いたので、そちらにちょっとだけ手を加えてここに紹介する。

長い歴史を自転車に乗って

 2015年に白水社から刊行された『歩道橋の魔術師』で呉明益の作品は日本でも広く知られるところになった。台北に実在した商業施設「中華商場」を舞台にした連作集で、歩道橋で手品グッズを売る魔術師が登場し、鮮やかなマジックを披露する。収録された短編群も魔術的な魅力を持ち、現実と幻想とが地続きで語られ、一編を読み終えるごとに物語の世界が恋しくなった。

 邦訳2冊目で初の長編となる『自転車泥棒』は、短編に息づいていた魅力がスケールアップされ、現実の過酷さと物語の魔力とが互いを包みあうような、とんでもない傑作になっていた。期待を超える、なんてものじゃない。

 物書きを生業とする主人公が、あるきっかけで一台の自転車を捜すことになる。それは20年前に失踪した父とともに消えた一台で、発見までにもドラマがあるのだが、件の自転車に行き着いたあとも壮大な物語が展開され、読むものを飽きさせないどころか、長く、覚めない夢へと誘ってくれる。

 1905年、母方の祖父が生まれた日から、現代に生きる主人公の日々まで、およそ100年。日本統治時代を含む台湾の史実を背景に、個人、家族、国家、そして自転車をめぐる歴史が、挿話や手紙、作中作、カセットテープの録音といった様々な「声」を通して語られていく。

 ゾウ部隊として抗日戦争に参加し、戦後台湾にやってきた象の林旺(リンワン)の物語は台湾の歴史を象徴するエピソードで、台北市立動物園で2003年に亡くなったこの象の生涯が台湾の人々の共有する「大きな記憶」だとすれば、一台の自転車にまつわる個人の物語は「小さな記憶」と言える。

 作者はこの「大きな記憶」と「小さな記憶」への焦点距離を自在に変えながら、つながることのなかった人生たちを結んでいく。非現実的な要素を大胆に導入し、そこに生きた人々を「いま生きている人々」のように蘇らせる。

 個人的な話になるが、僕の母方の祖父も自転車をたいせつに扱う人だった。亡くなって9年になるが、幼いころ、鹿児島の祖父母宅に滞在しているとき、毎日のように手入れを怠らない祖父を見て、よほど自転車が好きなのだと思っていたけれど、本書を読んでその印象も変更を迫られた。

 かつて自転車は家一軒と同程度の価値を持ったという。安価な日用品になったのはわりあいに最近で、祖父の自転車にも物語があったにちがいない。

 僕の祖父は厳しく、言葉数が少なく、ズルを許さない人物だった。満州時代のことを含め、こちらから頼んでいろいろと話を聞かせてもらったけれど、それでも、ある地点にくると口をつぐまれた。日本軍の行為について不躾な質問をぶつけると「そういうこともあったかもしれない」と濁された。あの口調は、忘れることができない。

『自転車泥棒』を読んでいるあいだ、どこかでひょっと僕の祖父が登場人物のひとりとして現れるのではと思えてならなかった。読み終えたいまも、この本と自分が地続きに結ばれている印象は消えていない。

 作中、ある人物が言う。

「捨てられたものにもかつてはすべて持ち主がいた」

 この台詞を「過ぎ去った時間にも懸命に生きた人々がいた」と読み替えるのは安易だろうか。

 だけど私たちはここにひとりで来たのではない。だれかが漕いできたペダルを、いま、自分も一歩一歩踏んでいる。亡き祖父の記憶とともに僕は痛感し、本作との出会いに感謝をおぼえる。

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