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磐余彥尊による一百七十九萬二千四百七十餘歳という年月について
上記の内容の記事がありました。
磐余彥尊による一百七十九萬二千四百七十餘歳という言葉にちょっとだけ触れています。
一百七十九萬二千四百七十餘歳についての解説Webサイト
一百七十九萬二千四百七十餘歳についてWebサイトを探してみました
詳しい内容は以下をごらんください。
出典
以下にとりあえずあげていますが、ネット上に出典が追えるもので有名で古そうな文献のみで、実際にはもっと文献あるそうです。
日本書紀 卷第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇
神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姫。海童之小女也。天皇生而明達。意礭如也。年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛。爲妃。生手研耳命。
及年四十五歳。謂諸兄及子等曰。昔我天神。高皇産靈尊。大日孁尊。擧此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。於是火瓊瓊杵尊。闢天關。披雲路。駈仙蹕以戻止。是時運屬鴻荒。時鍾草昧。故蒙以養正治此西偏。皇祖皇考乃神乃聖。積慶重暉多歴年所。自天祖降跡以逮。于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。
先代舊事本紀 卷第六 皇孫本紀 磐余彥尊
磐余彥尊。
天孫-彥波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子。母曰-玉依姬命。海童之少女也。天孫生而明達,意確如矣。
年十有五,立為太子。
長而日向國吾田邑吾平田津媛為妃。
誕生,手研耳命。
次,研耳命。
即年四十五歲,謂兄及子等曰:「昔我天神高皇產靈、大日孁尊,舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊瓊杵尊之時,闢天關,披雲路,驅先蹕,以戾止。是時運屬鴻荒,時鐘草昧。故蒙以養正,治此西偏。皇祖皇考,乃神乃盛。積慶重暉,多歷年序。自天祖降跡,以逮於今,即百七十九萬二千四百七十餘歲也
皇孫本紀 磐余彥尊
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/sendaikuji06.htm
倭姫命世記
三十二神前後に仁相副從比天ひて,各闢天關き岐,披雲路けて介天,驅仙蹕ひ比,天之八重雲を乎,伊頭之千別に爾千別て天。筑紫日向高千穗槵觸之峰に仁,天降到給ひて比弖。治天下,卅一萬八千五百卌二年。是時天地未遠,故以天柱舉餘天上焉。
天津彥火瓊瓊杵尊。【正哉吾勝勝速日天忍穗爾尊太子也。母栲幡千姬,高皇產靈尊女也。】
彥火火出見尊。【天津彥火瓊瓊杵尊第二子也。母木花開耶姬,大山祇神女也。】治天下,六十三萬七千八百九十二年。
彥波瀲武鸕鶿草葺不合尊。【彥火火出見尊第太子。母豐玉姬,海童二女也。】治天下,八十三萬六千卌二年。
二、神武天皇
神日本磐余彥神武天皇。【彥波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子也。母玉依姬,海童之大女也。】
天皇生而明達,意確如也。
年十五,立為太子。
及卌五歲,謂諸兄及子等曰:「昔我天神高皇產靈尊、大日孁尊,舉此豐葦原瑞穗國,而授我天祖彥火瓊瓊杵尊。於是火瓊瓊杵尊開天關,披雲路,驅仙蹕,以戾止。是時運屬鴻荒,時鐘草昧。故,蒙以養正,治此西偏。皇祖皇考,乃神乃聖,積慶重暉,多歷年所。自天祖降跡以逮,于今一百七十九萬二千四百七十餘歲
「皇御孫命は、天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に、天降り到った。それより天下を治らすこと二十一万八千五百四十三年。」
「彦火火出見尊ひこほほでみ のみこと〔天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子。母は木花開耶姫このはなのさくやひめで、大山祇神おほやまつみ のかみの女〕。天下を治らすこと六十三万七千八百九十二年。
彦波瀲武鵜草茸不合尊ひこなぎさたけうがやふきあへず のみこと〔彦火火出見尊の太子。母は豊玉姫で、海童わたつみの女〕。天下を治らすこと八十三万六千三十二年。」
「【神武天皇】
神日本磐余彦天皇かむやまといはれひこ のすめらみこと〔彦波瀲武鵜草茸不合尊の第四子。母は玉依姫で、海童の女〕。
天皇(神武天皇)は生れながら賢く心強くあり、御年十五歳で大子となられた。四十五歳のとき、諸兄や子たちに言はれるに、
「むかし高天原の高皇産霊尊と大日靈尊は、この豊葦原の瑞穂国を我が皇祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。火瓊瓊杵命は、天の関を開いて雲路をかき分け、道を祓って降臨された。太古の荒涼の地は混沌とあらはれ、道暗き中に正しきを養ひ、西偏より治らした。皇祖は神また聖として、慶びを重ね輝きを増し、多く年を歴て、天祖の降跡より以遠、今に一百七十九万二千四百七十余年なり。」