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法解釈はフィロソフィ(いわゆる学問)やサイエンスではなかった

法解釈がいわゆる学問や社会科学ではないとの見解を集めました。

昔のヨーロッパの大学ではフィロソフィ(いわゆる学問)ではなかった法解釈

 中世から近世のヨーロッパの大学では法律解釈は、自由七科=フィロソフィ(いわゆる学問)を履修したのち学ぶ専門科目でした。
このことは、カントの最後の著作にも言及されています。

カントによるフィロソフィーと法学

イマニュエル・カントは最後の著作『諸学部の争い』で、中世モデル以来の大学を、法学と医学そして神学の上級学部と哲学の下級学部に分けられているその意味を、批判的に分析しました。上級学部の三つは、いわば国家システムが社会を統治する三つの基準を示している。人間社会を統治し計る基準は法学。」

「あるいは「泥棒してはいけない」というのは法学の領域である、と。これらの三つの分野は、国家があらかじめそのシステムに組み込んでいる正当化の三つの領域を代表している。大学はそういう正当性を与える理論や権威を勉強する場所なのです。しかしながら、下級学部として位置づけられていた哲学は――そこに芸術も入れていいでしょう――そうした社会のプログラムに組み込まれ得る目的に基づいていない。ではそれは必要でないか? という論争があった。それに対する応答が、カントの『諸学部の争い』です。 簡単に言えば、以上の法学、医学、神学という三つの学部は、既存システムに対しての合目的的な判断、つまり合システム的な判断しかできないということです。すると、このシステムそれ自体の良し悪しの判断はどのようにやるか? そのシステムが機能不全になったときにどうするか? 法学、医学、神学は通常の技術(学部)よりも上位ではあるけれど、規定的判断を前提にしている。であれば、規定的な技術を習得させる専門学校の理論編くらいにすぎないことになる。ところが哲学は、こうしたそれぞれの技術内の都合、規定的判断、すなわち突き詰めればそれぞれのシステムの効率、エコノミー、利害に作用されない。いかなるシステムの都合からも離れて判断できる。反対に言えば、下級学部としての哲学は、すべての技術の基礎を学び直すことで、それを問い直すことができる、哲学部のなかにはすべての専門領域が含まれているというわけですね、大学の中の大学だと。哲学だけで大学であると。 それ以外の上級学部、法学部、医学部、神学部は既存の制度を前提として、それを成り立たせる概念から規定的に延長される規定的な判断しかなしえない。

https://kagakuukan.org/jpn/texts/art_education_science

フィロソフィとは

「ラテン語 artes liberales アルテース・リーベラーレース が septemartes liberales セプテム・アルテース・リーベラーレース 自由七科」

「大学は神学部・法学部・医学部が中心であったが、学生はこれら専門学部で学ぶにあたって先ず最初に、すべての技芸=知識の基礎であり、あらゆる専門的技芸=知識の前提・土台となる自由七科を哲学部において習得することが求められた。これが大学における教養課程のルーツである。
ところで、当時「哲学」という学科がもっていた意味合いは、現在とは大いに異なる。哲学は英語で philosophy、ドイツ語で Philosophie[フィロゾフィー]、ラテン語では philosophia[ピロソピア]というが、これは周知のように「知を愛する」という意味である。古典古代・ヨーロッパ中世にあっては、philosophia はまさしく知を愛するということそのものを指しており、つまりは「知識・学問」と同義なのである。」

「下に自由七科のリストを挙げてあるが、これを見ると、ここには哲学は入っていない。なぜなら自由七科すべてが哲学だからである。ところで哲学はその根本的語義からいえば、すべての学問を包括する概念」

「リベラル・アーツ」とはなにか ――大学における「教養」―― 基盤教育センター ドイツ語学科 寺門 伸
https://web.archive.org/web/20111011020422/http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/liberal_arts.pdf

法解釈は学問ではないという見解

キルヒマンの法学の学問としての無価値性(die Wertlosigkeit der Jurisprudenz als Wissenschaft)

価値性法学の科学性に対する懐疑としては,1847年にドイツの裁判官J.vonキルヒマンが行った〈法律学の学問としての無価値性について〉という講演が有名である。キルヒマンはこの中で,法という人為の産物であり時勢とともに変遷する対象を扱う法学は厳密な意味で学問の資格を有しないと説き,〈立法者が三たび改正のことばを語れば万巻の法律書が反故(ほご)と化する〉と主張した。

https://kotobank.jp/word/キルヒマン-53855

キルヒマン「法学無価値論」の歴史的意味
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17166/KJ00000150308.pdf

Wissenschaft(いわゆる学問)とは

ラテン語のscientiaは「知識」全般を指し示す言葉であった。が、この意味そのままにフランス語のscienceとなり、17世紀には英語圏でscience、ドイツ語ではwissenschaftという訳語が与えられた。日本では「科学」と訳された。 本来は「知識」全般を意味したが、各国語ではその意味内容に微妙な違いがある。「知識」という一般性から、ある特別な知識という専門的な意味性を持つようになったのである。これは12世紀以降のアリストテレスのラテン語訳稿本で使われていたscientificusという形容詞の意味から派生したと言われている。それは、限定され、体系的で正確でしっかりとした知識という意味であった。したがって、英語圏では、ユークリッド幾何学のような演繹的に組み立てられた知識体系や、実験や観察から得られた知識を指し、これが今日では学問という意味に繋がっている。それを受けて、研究活動を職能とするscientistという言葉が1830年代に作られた

http://www.kazuokawasaki.jp/kk/9_designlang2.php?cid=11&del=2

「科」学も一種の誤訳です.ラテン語でscientia,英語ではscience,ドイツ語ではWissenschaft,共に,知識一般という意味しかなく,そこには「(分)科」した,つまり「科・目」に「分・科」あるいは「分・類」された,分かれた,という意味はいささかもないのです.わたしは,ただ1つの自然の存在に対応したただ1つの自然学がある,と主張するものですが,これは,ヨーロッパ語圏ではまことに自明なことにすぎません

https://web.archive.org/web/20170504102922/http://laboratory-for-metaphysics.org/metaphysics0.html

WissenschaftとScience

この二つの用語とも元来は知識、学問を指すもので、自然科学やその他の学問を分割して示すものではなかった。Scienceはラテン語の動詞Scire(Scio知る)を名詞化したScientia(知識)から来たもので、この言葉に於いては哲学と今日で言う自然科学の差はない。ドイツ語のWissenschaftも全く同様で、ドイツ観念論哲学を訳すときこの言葉は「学」とか「学問」とか訳されている。Scienceがもっぱら自然科学を意味し始めたのは特にドイツなどで多くの自然科学者が輩出し始めた1850年以後であろうと推測される。以前は有名な哲学者でもこの両方の領域に手を染める人がいたのは周知の事実であるが、一番古いところではアリストテレスなどが代表的なものであろう。微分、積分法の発見をニュートンと争ったライプニッツ、虹の原理を考えたスピノザ、カント、惑星軌道について卒論を書いたヘーゲルなどなど。

https://web.archive.org/web/20150325145806/http://chikyuza.net/xoops/modules/news2/article.php?storyid=83

アメリカにおける法学と学問観へのラムザイヤーの批判

 アメリカでの法学と学問アメリカにおいて、法学を学問として取り扱っていることに対して、ラムザイヤーにより、法学には研究方法論がないため学問ではないとの批判されています。

米国の伝統的な法学研究の誤りは、法を「法学」という学問として取り扱おうとしたところにあったのである。なぜなら、学問には研究の方法論 (methodology) が必要であるが、法学には (判例や立法の整理以外には) 何の方法論もなく、作ろうと思っても作れないからである。それは、「法」が研究方法の人つではなく (また、社会科学の分野の一つでもなく)、社会の一つの「現象」にすぎないからである。いい換えれば、「法」、「社会に対する法の影響」、または「法に対する社会の影響」等は、研究の方法ではなく、研究し得る客体にすぎないのである。そして、その法という客体を研究するには何らかの方法論が必要であり、法学にはその方法論が全くないため、社会科学的研究を行うには他の分野から方法論を持ち込まざるを得ないのである。

ラムザイヤー『法と経済学』序文
https://ci.nii.ac.jp/naid/130006733421

日本における法解釈と科学(社会科学)

 日本の法学部における研究者の見解では法解釈は「科学」ではないとされています。そこで、法解釈を科学たらしめるため、川島武宜は『科学としての法律学』を著しました。

解釈学説は科学的認識作用ではない

宮沢俊義(としよし)で、その著『法律学における「学説」』(1936)において、法学説を「理論学説」と「解釈学説」に分類し、後者は実践的意欲の作用で、科学的認識作用ではないとしている。第二次世界大戦後も来栖(くるす)三郎らによって「法解釈学の客観性」への疑問が提起され、法解釈学の実践的性格、法社会学的認識を取り入れる必要性などが一般的に承認されている。

https://kotobank.jp/word/法学-131828

法解釈は「科学」ではない

教授が指摘されるのは、「法解釈学は『科学』ではない」ということであって、教授によれば、取り分け、法学の核心を成している法解釈学は「科学」から最も疎遠な学問である。そこには多数説と少数説はあっても「正解」は無い。従って、小学校以来、正しいとされる数々の知識を詰め込まれ、試験問題には必ず正解があるものと思い込んで来た学生達にとって、これほど取りつき難く馴染み難い学問は無い

大学の法学部における法学教育の目的(一) 西尾論文

http://www.law.tohoku.ac.jp/~fujita/nagoya.html

川島武宜『科学としての法律学』

 法解釈は科学か?という論争への答えとして、川島武宜は『科学としての法律学』を著し法解釈を科学たらしめようとしました。

科学としての法律学 解説
http://www.meiji-yuben.net/rec/2016/dokusyokai28sano.pdf

関連

すべてのアメリカ人のための科学
http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

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