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ratio(整数比・理性 合理)を追い求めた septem artes liberales (セプテム・アルテース・リーベラーレース 自由七科)中世の学問=フィロソフィ

西洋中世の学問自由七科についてイメージを記述しています。

中世の学問 フィロソフィ

中世では現在と違い学問が細分化されていませんでした。全体の把握が大事というパラダイムがありました。当時のすべての知識スキエンティアをまとめてフィロソフィ、日本でいうところの「学問」ととらえていたようです。その基礎の「学問」習得が終わった後に神学、法学、医術の上位を習得するのが当時の大学でした。卒業しプロフェッショナル職として神職、裁判官や弁護士、医者の仕事に就いたようです。

ヘルベルト・ブレーガー「ライプニッツ哲学における全体と部分」(稲岡大志訳)は、冒頭で少しばかり単純化された概括を行っている印象。全体が先行し部分を決定づけるとされていた中世の全体と部分の考え方に対して、近代以降は部分が先行し全体を構成するという話になる

「部分と全体」の歴史的展開https://www.medieviste.org/2015/01/20/%e3%80%8c%e9%83%a8%e5%88%86%e3%81%a8%e5%85%a8%e4%bd%93%e3%80%8d%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e7%9a%84%e5%b1%95%e9%96%8b/

「「科」学も一種の誤訳です.ラテン語でscientia,英語ではscience,ドイツ語ではWissenschaft,共に,知識一般という意味しかなく,そこには「(分)科」した,つまり「科・目」に「分・科」あるいは「分・類」された,分かれた,という意味はいささかもないのです.わたしは,ただ1つの自然の存在に対応したただ1つの自然学がある,と主張するものですが,これは,ヨーロッパ語圏ではまことに自明なことにすぎません」


日本「誤・訳」の諸問題
https://web.archive.org/web/20170504102922/http://laboratory-for-metaphysics.org/metaphysics0.html

WissenschaftとScience

この二つの用語とも元来は知識、学問を指すもので、自然科学やその他の学問を分割して示すものではなかった。Scienceはラテン語の動詞Scire(Scio知る)を名詞化したScientia(知識)から来たもので、この言葉に於いては哲学と今日で言う自然科学の差はない。ドイツ語のWissenschaftも全く同様で、ドイツ観念論哲学を訳すときこの言葉は「学」とか「学問」とか訳されている。Scienceがもっぱら自然科学を意味し始めたのは特にドイツなどで多くの自然科学者が輩出し始めた1850年以後であろうと推測される。以前は有名な哲学者でもこの両方の領域に手を染める人がいたのは周知の事実であるが、一番古いところではアリストテレスなどが代表的なものであろう。微分、積分法の発見をニュートンと争ったライプニッツ、虹の原理を考えたスピノザ、カント、惑星軌道について卒論を書いたヘーゲルなどなど。

一元論的合理主義、スピノザ、フィヒテとヘーゲルその1〈槻木克彦〉https://web.archive.org/web/20150325145806/http://chikyuza.net/xoops/modules/news2/article.php?storyid=83

「ラテン語 artes liberales アルテース・リーベラーレース が septemartes liberales セプテム・アルテース・リーベラーレース 自由七科」「大学は神学部・法学部・医学部が中心であったが、学生はこれら専門学部で学ぶにあたって先ず最初に、すべての技芸=知識の基礎であり、あらゆる専門的技芸=知識の前提・土台となる自由七科を哲学部において習得することが求められた。これが大学における教養課程のルーツである。ところで、当時「哲学」という学科がもっていた意味合いは、現在とは大いに異なる。哲学は英語で philosophy、ドイツ語で Philosophie[フィロゾフィー]、ラテン語では philosophia[ピロソピア]というが、これは周知のように「知を愛する」という意味である。古典古代・ヨーロッパ中世にあっては、philosophia はまさしく知を愛するということそのものを指しており、つまりは「知識・学問」と同義なのである。」

自由七科のリストを挙げてあるが、これを見ると、ここには哲学は入っていない。なぜなら自由七科すべてが哲学だからである。ところで哲学はその根本的語義からいえば、すべての学問を包括する概念

「リベラル・アーツ」とはなにか ――大学における「教養」―― 基盤教育センター ドイツ語学科 寺門 伸
https://web.archive.org/web/20111011020422/http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/liberal_arts.pdf

自由七科の歴史

『文献学とメルクリウスとの結婚』とセプテム・アルテース・リーベラーレース

自由七科は、擬人化された女性として書かれたテキスト『文献学とメルクリウスとの結婚』がおおうけしました。そのため以後も女性として描かれています。

「アウグスティヌスとほぼ同じ頃やはり北アフリカで活躍したギリシア学問の学者にマルティアーヌス・カペッラが居る。彼は「文献学とメルクリウスとの結婚」(5世紀初め)という百科全書的な意味合いを持つ知識の集大成を目論み、プラトーンの「国家」やアリストテレースの「政治学」にすでに概念の表わされている自由学芸的な考えと、そこで学ばれるべき様々なジャンルの学問を順に紹介した全9巻の書物を書き表した。最初の2巻で学問を表わす文献学と雄弁を表わすメルクリウスの結婚式が描かれ、残りの7巻でそれぞれの学科が新婦の次女のスピーチを告げるという形で、自由学芸をそれぞれ説明している。この本の楽しいストーリー性と、そこに書き記された内容が安直明瞭で理解しやすかったためか、自由7科の伝統として中世に受け継がれる事になった。この自由7科septem artes liberales(羅セプテム・アルテース・リーベラーレース)は学生が基礎教養として学ばれなければならない7つの学問の事で、中世の修道院付属学校・教会付属学校などでは後になると、神学学ぶことになっていた。

土台となる言語を学ぶ3科(トリヴィウム)
→文法Grammatica・修辞Rhetorica・弁証Dialecticaを学び、その上位として数により世界の秩序関係を解き明かす

4科(クアドリヴィウム)
→算術Arithmetica・音楽Musica・幾何Geometrica・天文Astronomiaを学ぶ事とされていた。」

「そしてこの7つの教養をクリアした上で、己の教養を動員して神学を修める事が、キリスト教教育機関としての理想の姿とされた。」

https://tokino-koubou.net/classic-history/medieval/hwm2-6.htm

15世紀イタリアのフマニタス学 humanitas

15世紀末のイタリアにさかのぼられる。イタリア語でウマニスタumanista(あるいはラテン語でフマニスタhumanista)と記されるもので,当時の大学で学生用語として発生したもののようで,法学leggeの教授をleggista,教会法canoneの教授をcanonistaと呼ぶならわしに従って,フマニタス学humanitasの教授をhumanistaと呼ぶようになったらしい。ちなみにフマニタス学は当時の大学生たちには最も人気のある学課であった

https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%81%BE%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%99%E5%AD%A6-1407045#goog_rewarded

14世紀イタリアペトラルカ以降、古典古代(ギリシア・ローマ)への関心が高まるルネサンス期になると、スコラ学的なアリストテレス哲学に基づく論理体系に対して、キリスト教以前の古代のギリシア・ローマの詩歌歴史修辞学の中に倫理の源泉を見いだそうとする動き

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

ルネサンス期に絵画、彫刻、建築が加わった

美術というカテゴリーの中に絵画、彫刻、建築を同居させる上記の制度は、実質的には16世紀のフィレンツェに世界初の美術アカデミー「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(直訳すると、素描または線描の技術のアカデミーという意味)」を設立した画家ジョルジョ・ヴァザーリの発明である。彼はフィレンツェを含むイタリアのトスカーナ地方の芸術の優位性を主張するためにアーティストの伝記集『画家、彫刻家、建築家列伝』を書き、その中で絵画、彫刻、建築の三技芸を「素描(線描、ディゼーニョ)」の芸術として統合した。その理屈はこうだ。絵画も彫刻も建築も、構想や設計の段階で素描を描く。その素描がないと作品が作れないのだから、絵画も彫刻も建築も素描から生まれていることになる。だからそれらの三技芸は本質的に同じ素描の技術である……と。ちなみに素描や線描を意味するイタリア語のディゼーニョ(disegno)はフランス語でデッサン(dessin)、英語ではデザイン(design)となる(現代英語でデザインといえば産業分野のデザインや「設計」の意味合いが強いが、19世紀ごろまでは「素描」の意味で用いられていた)。このアカデミーが重視したのが、美術は自由学芸(リベラルアーツ)であるというルネサンス以降のイデオロギーである。自由学芸とは文法学、論理学、修辞学の三学と幾何学、算術、天文学、音楽の四科からなる教養のこと。中世まで、ヨーロッパでは絵画や彫刻などの分野は学問ではなく「手技」だとみなされていたが、幾何学の応用で成り立っている線遠近法を使い、解剖学の知識を探究し、文学の素養をもって物語を造形するルネサンス以降の美術が学問に数えられないのはけしからんということで、同業者の地位向上と福祉の追求、そして美術の学問体系化がアカデミーを中心に進行していったのである。これと同様の制度をイタリア半島の諸国(イタリアが統一されたのは19世紀)やフランス、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が導入し、発展させてきたのが美術の枠組であって、その言葉の定義には「美術は自由学芸であり、手技だけではなく理論と歴史の体系を持つ」という前提がともなう。

日本の造形文化の伝統はアートと相性が悪いかもしれない
松下哲也
https://note.com/pinetree1981/n/n00aa2aa8949c

ratio 整数比=有理数(理性・合理)こそGODの秩序であった

訳者のことば…
「『音楽教程』でも多くのページが割かれている“モノコルドの分割”である。“一本の弦”を意味するモノコルドの弦長を二分割、三分割、四分割等にしていくことによって、どういった音程が生じるのかが考察の対象になったのである、これは科学的にも真であると認められる事象である。これを、1:2、2:3、3:4などの比関係で捉えることによって、協和・不協和の考え方が定位していった。音楽理論が数学との結びつきが強い、と言われるのにはこうした経緯があるが、ここでの数学とは数比の学問のことであり、その発端にはピュタゴラス(派)の認識、あるいは世界観があった。」──「訳者解題」より

『音楽教程』 著:ボエティウス 訳:伊藤 友計(講談社)

https://www.facebook.com/share/H9md4zKZJa3bb8Zm/?mibextid=WC7FNe

上位4科はすべて数の学問であり、完全な数比関係こそ神の秩序の考えにふさわしいものだったが、ピュータゴラースの数比的思想やプラトーンの考えが時代を経て変化したネオプラトーン的なローマ学問の思想が、この考え方の土壌を形成している。つまり、ここで云う音楽はつまり音と音の比率などの学問

https://tokino-koubou.net/classic-history/medieval/hwm2-6.htm

一例 Geometrica(幾何)とテキスト エウクレイデス(『原論』)

当時いかなる勉強をしたのかをイメージできるようGeometricaのテキストエウクレイデスについて以下おいておきます。当テキストはアラビア数字が移入前のギリシャ語で記載されラテン語に訳されたものなので現在の「幾何」の書とはイメージが異なります。ここでもGODの整数比が重視されています。
なおGeometricaの意味は以下のとおりです。

geometry です。 ギリシャ語は、γεωμετρικός (Geometric) で、ほぼ同じスペリングを保っています。

geō-(earth)+metria (measurement) で、土地を測量する、

という意味です。

「リベラル・アーツ」 は、理系の術。 文系ではない。https://web.archive.org/web/20160810113019/https://76871734.at.webry.info/201405/article_29.html

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