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戦後教育の出発点「山びこ学校」

今日は学校教育の歴史についてのお話をします。

学校というのはそもそも、国家が「国民」を養成するために用意したというのが出発点です。その「国民」というのは国家に対して忠誠心をもつ人間という意味です。今はその側面を感じる機会は減少しましたが、戦中ではその側面が極限まで強化されていました。

そんな戦中期がおわり、戦後が始まると学校の持つ「国民」の養成という側面は大きな変容を遂げます。養成するべき「国民」というのは国家に(日本で言えば天皇に)忠誠心を持つ人間ではなく、社会を自ら支えるという自覚を持った人間を養成する必要が出てくるのです。

当時の教員陣はこの変化に困惑し、新しい教育に対して悪戦苦闘しました。その悪戦苦闘の中で最も有名で大きな影響を与えた「やまびこ学校」について今日は迫りたいと思います。

やまびこ学校とは

『山びこ学校』(やまびこがっこう)は、山形県山元村(現在は、上山市)の中学校教師、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの学級文集、内容的には生活記録をまとめて、1951年(昭和26年)に青銅社から刊行したもの。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』である。2008年1月現在、岩波書店(岩波文庫)から刊行。舞台となった上山市立山元中学校は2009年3月廃校となった。
『やまびこ学校 Wikipedia』

つまり、やまびこ学校とは教え子たちの生活記録をまとめて出版したもので、これを生活綴方と言ったりします。

生活綴方【せいかつつづりかた】

児童・青年,さらには成人に自分の生活に取材したまとまった文章を書かせることによって,文章表現能力または,表現過程に直接間接に現れてくる知識,技術,徳目,権利意識,意欲,広くはものの見方,考え方,感じ方を指導しようとする教育方法,またその作品,あるいはその運動。大正初期に発生以来,時代,指導者の違いにより,どこに力点を置くかが異なってきた。その原型をうちだしたのは芦田恵之助,鈴木三重吉,小砂丘(ささおか)忠義など。昭和初期の小砂丘以後の運動は,秋田県の成田忠久ら東北地方の教師たちの北方教育運動等と呼応,綴方や生活指導を通じて子どもの生活・学習意欲をつちかうことをめざし,生活綴方運動と呼ばれた。1929年10月に,運動の母胎となる雑誌《綴方生活》創刊。その伝統は戦後に継承され,1951年3月刊の無着成恭編《山びこ学校》や国分一太郎著《新しい綴方教室》はその再興といわれた。

百科事典マイペディア「生活綴方」

ここまで聞いて、皆さんは疑問に思うかもしれない。こんな日記の寄せ集めみたいなのがどうして重要なのだろうか?と。

この運動が注目に値するのは、これらを通じて当時の社会を学生はどう見ていたか、教員はどうしようとしていたかということがよくわかるということによるのだ。

特にこのやまびこ学校は、農村に残る古い硬直した価値観に対する少年たちの疑問を対話や活動を通じて広げていき、村の社会すら変えていこうとする姿勢などがあったことで同時代の多くの教員に大きな影響を与えた。

貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方(つづりかた)に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。

日本大百科全書(ニッポニカ)「山びこ学校」

さて、今日は戦後教育の出発点とも言えるやまびこ学校について話しました。このような生活記録が歴史に影響することもあるという良い例だと思います。

もしかしたらあなたが付ける日記も将来の研究対象になるかもしれません。ではまた。

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