ウロボロスの輪から、アスクレピオスの杖へ─01 入不二基義の「円環モデル」
本連載では、入不二基義『現実性の問題』第1章で提示される「円環モデル」について考察する。この円環モデルに、カンタン・メイヤスーの「事実論性」をぶつけてみることにしたい。
あらかじめ簡単に結末を述べておこう。本連載では、入不二の円環モデルにおいて抑制されている「可能性の力」を解き放つことになる。入不二の主張する「現実性の力」に対抗できるほどの力を、メイヤスーの議論から引き出すこと。それが本連載の目指すところだ。
連載01の今回は、入不二の円環モデルについて確認する。
1. 円環モデルの3要素
入不二基義『現実性の問題』第1章で提示される円環モデルは、同書全体の議論を凝縮したものとなっている。第2章以降では、この円環モデルが時間や様相、人称、存在といった哲学的問題に適用されていくことになる。この円環モデルは、これらのさまざまな問題に適用可能な汎用性を備えているのだ。逆にいえば、それらの問題に適用することによってはじめて、このモデルの具体的で豊かな内実を理解できるということでもある。
ここでは紙幅の都合上、円環モデルの概略だけを説明するにとどめる。このモデルがどのようにさまざまな哲学的問題へと具体的に適用されていくのかは、ぜひ同書を読んで味わってみてほしい。
それでは、さっそく円環モデルについて見ていくことにしよう。
円環モデルを構成する重要な要素は、「現実性」「可能性」「潜在性」の3つだ。このうち、現実性は特権的な地位にある。現実性は、円環モデルという王国のいわば王である。潜在性は、王国の危機を救う勇者にあたる。可能性は、このふたつに対立する魔王だといえる。〈現実性+潜在性〉 vs. 可能性。このような対立構造がある、とまずは整理することができる。
では、現実性、可能性、潜在性という3つの要素はどのようにして出てくるのか。入不二の説明をたどりつつ、さらに確認していこう。
2. 初発の現実と可能性
「Pが起こった」という端的な事実性。初発の現実。これが円環モデルのさしあたりの出発点だとされる。
しかし、この出発点は踏み出された途端に、そこからのわずかなズレを生じさせてしまう。「P = P」という同一律には、じつはズレが内包されている。同一律において、Pは左辺と右辺へ分裂することになる。同一律におけるPの反復のうちには、Pそれ自体からのズレ(Pの否定)が内包されているのだ。この最小の否定性をはっきりとしたかたちで取り出せば、排中律「P ∨ ¬ P」(Pまたは非P)が浮かび上がってくることになる。
排中律によって象徴される否定性をつうじて開かれた領域が、反実仮想であり、可能性である。反実仮想とは、「Pが起こった」という現実に対してなされる「仮にそのPが起こらなかったとしたならば」という想定である。つまり、現実が先立ち、それに遅れた仕方でやってくる否定性が反実仮想だ。反実仮想は、現実に対して絶対的に遅れている。
反実仮想に含まれるこの遅れを消し去ったものが、可能性である。「現実 → 反実仮想」という方向から、「可能性 → 現実」という方向への転換。これによって可能性の領域が開けることになる。あらかじめ可能な選択肢があって、そのひとつとして現実が生起する、となるわけだ。
入不二は、排中律と現実/可能性との関係について、つぎのように述べている。
排中律(P ∨ ¬ P)は、現実と可能性の接触点のように働いている。現実のほうに重心をおくならば、(Pか¬ Pの)どちらか一方であるという「唯一性」が浮かび上がるし、可能性のほうに重心をおくならば、(Pか¬ Pの)どちらでもありうるという「二つ性(複数性)」が浮かび上がる。(『現実性の問題』28頁、強調引用者)
端的な事実として生じる初発の現実は、ただそういったものであるだけだ。そこには端的な肯定しかない。しかし出来事が生じた途端、そこに否定がまとわりつくことになる。排中律「P ∨ ¬ P」の登場である。可能性が、端的な事実としての現実に先回りすることになる。つまり、P か ¬ Pのどちらでもありえたが、たまたま(たとえば)P という現実が生じた、という構造が現れるのだ。現実は、複数ある可能性のうちのひとつという地位へと転落することになる。
以上のようにして排中律をとおして開かれた可能性を、入不二はさらに豊穣化させていく。端的な事実としての初発の現実は、端にそれでしかないという全面性を保持していたが、可能性の登場によってそれを失うことになった。現実は、P か ¬ Pというふたつの可能性のうちのひとつという相対的な地位へと貶められることになったのである。入不二は、ここからさらに可能性を豊穣化させ、無限の可能性のうちのひとつというさらに相対的で貶められた地位へと現実を追い込んでいく。
以下では、この可能性の豊穣化と、最後の登場人物である潜在性について確認しよう。
3. 可能性の豊穣化
だがそのまえに、可能性の豊穣化について一点だけ筆者の考えを述べておきたい。入不二の議論において、可能性の豊穣化は「現実 vs. 可能性」というバトルでいったんは可能性を勝利させる契機として登場する。無限の可能性の領域が現れることによって、可能性が全面性を獲得し、現実はそのうちのごく一点を占めるローカルなものとなる。可能性が圧倒的な力をあたえられ、現実がそれに抑え込まれることになるのだ。
だが筆者は、可能性がもつ本来の強い力は、むしろ最初の排中律の段階にこそあると考える。「可能性」サイドに立って議論の展開を捉えた場合、むしろ可能性の豊穣化へと踏み出すべきではない。その理由はふたつある。ひとつは、以下で見ていくように、可能性の豊穣化の過程において、「現実」サイドの武器である肯定性が利用されてしまっているからだ。「可能性」サイドの武器である否定性が、もっとも純粋で強力なかたちで表現されたものが排中律だといえる。
理由のふたつ目は、可能性の豊穣化は、結局のところ、「現実」サイドの援軍として潜在性を生み出すきっかけになってしまうからだ。豊穣化による可能性の圧倒的な勝利は、すぐさま〈現実性 + 潜在性〉によって打ち消されることが運命づけられているのである。
では、まず可能性の豊穣化について確認しよう。入不二は、可能性を豊穣化するふたつの仕方を示している。(入不二自身の言い方ではないが)それぞれ「内なる無限化」と「外なる無限化」と呼ぶことができる。
まずは、内なる無限化について。排中律「P ∨ ¬ P」の「¬ P」に着目しよう。¬ Pにおいて否定によってひと括りにされている可能性を、無限の肯定的な可能性へと読み換えるのである。¬ Pを肯定形へと転換すると、Q、R、S・・・といった無限の項が湧き出てくる。「P ∨ ¬ P」は、「P ∨ Q ∨ R ∨ S ∨ ・・・」という無限の可能性へと豊穣化されることになる。
つぎに、外なる無限化について。排中律「P ∨ ¬ P」は、ある議論領域(枠)Dをもっている。たとえば、Pが「私は直立している」である場合、Dは「私の行為」だといえる。「私の行為」という議論領域Dのうちには、「私は直立しているか(P)、安座しているか(Q)、四足歩行しているか(R)、疾走しているか(S)・・・」という無限の可能性が存在している。さらに、このD自体に排中律をメタ適用することによって、「D ∨ ¬ D」(行為または非行為)を考えることができる。もちろん、この「D ∨ ¬ D」もまた、ある議論領域D'をもっているだろう。そして、D'に再度、排中律をメタ適用すれば、「D' ∨ ¬ D'」を考えることができ、その背後にはさらなる議論領域D''が控えているはずだ。こうしたメタ方向の無限化が、外なる無限化である。
以上の内なる無限化と外なる無限化をつうじて、無限の可能性の領域が立ち上がる。現実は、このように全面化した可能性のほんの一点でしかないという地位に貶められることになる。
4. 潜在性
しかし、ここから「現実」サイドの反撃がはじまる。潜在性の登場だ。現実性という王国の危機を救う勇者・潜在性の出現によって、ふたたび現実性が全面性を回復していくことになる。この可能性から潜在性への「転回」を駆動するのは、「否定に対する肯定性の優位」の原理である、と述べられる。
入不二は、先ほどの可能性の豊穣化の段階において、じつはすでに「否定に対する肯定性の優位」の原理が働いていたのだと指摘する。先ほど確認した可能性の豊穣化は、排中律に含まれる否定性(¬ P)を退かせ、無限の肯定項(Q、R、S・・・)や肯定枠(D'、D''、D'''・・・)を浮き立たせることによってなされた。この意味において、ここですでに「否定に対する肯定性の優位」の原理が働いているのだといえる。この原理をさらに加速させることによって可能性から潜在性への転回をもたらそう、というのが入不二の戦略だ。
可能性の豊穣化で働いていた肯定性の優位は、ふたつの点で不徹底である、と入不二は指摘する。この不徹底さを退けて、徹底した肯定性の優位へと転換することによって、可能性から潜在性への転回がもたらされるのだ。それぞれ確認しよう。
まずは不徹底さのひとつ目について。豊穣化された可能性における肯定性の優位とは、「P、Q、R、S・・・」あるいは「D、D'、D''、D'''・・・」と、肯定項がどこまでも続いていくということである。しかし、ここには「連鎖に終わりがない」(未完結)という否定性が含まれている。この意味において肯定性の優位が不徹底なのだといえる。
さらに不徹底さのふたつ目について。豊穣化された可能性の領域を占める無限の肯定項は、分割(ないし区分)を前提することによって成り立っている。だが、個々の肯定項の分割を可能にしているのは、「他ではない」という否定性である。ここにもまた、肯定性の優位の不徹底さが見いだされる。
可能性から潜在性への転回は、以上のふたつの不徹底さを取っ払い、肯定性の優位の原理を徹底することによってなされる。つまり、可能性のうちに含まれている未完結性(終わりのなさ)を完結性へと転換し、さらに分割による肯定を分割なき肯定へと転換するのである。
こうして見いだされる潜在性とは、そこから、分割された可能性が際限なく生み出されてくるような無限の場である。分割なき潜在性の場という完結した実無限的な「地」があり、そこから「図」として、分割された可能性がつぎつぎと際限なく湧き出てくるのだ。
この潜在性の登場によって、現実性はふたたび全面性を取り戻すことになる。その理由を入不二はつぎのように説明する。
「可能性の領域」の場合には、現実はその領域内の一点(無数の可能性の一つ)へと局所化して収縮していくのに対して、「潜在性の場」の場合には、現実は(PやDなどの特定の「輪郭・形姿」を失うことによって)むしろ無限の場の全域に浸透して、現実性は潜在性の場と一体化して働くからである。すなわち、潜在する全てが現実である。「現に潜在している」のだから、潜在しているものには隈無く現実性が及んでいる。(同書36頁)
現実を可能性の領域の一地点へと閉じ込めていた分割が取り払われたことによって、現実性は潜在性の場の全域へと浸透することになる。それによって、ふたたび全面性を手にすることになるのだ。
こうして、現実は潜在性の場と一体化し、潜在的な現実となる。ここにさらなる一歩が付け加えられる。この潜在的な現実から、円環モデルの始発点である顕在的な現実(初発の現実)が生じるのである。分割なき潜在性の場から、分割によって顕在化した現実が生じるのだ。これは『現実性の問題』における発生理論だといえる。顕在化した現実の発生をつうじて、わたしたちは円環モデルをぐるりと一周してきたことになる。
(以下の図を参照。下図は、同書37頁の図を元に筆者が作成したものである。本記事において紹介していない要素は省略してある)
5. ふたつの水準の現実性
円環モデルの一回りを簡単にまとめておこう。
まず初発の現実がある。そこに排中律が介入し、可能性が開かれる。そして可能性の豊穣化によって、現実はローカルな身分へと転落する。ここまでが円環の右側だ。ここから肯定性の優位が徹底されることによって、可能性から潜在性への転回がなされる。つまり、円環の左側への転回だ。分割なき肯定性である潜在性の場が開かれることによって、現実はふたたび全面性を獲得する。そして、潜在性と一体となった潜在的現実から顕在的現実への跳躍をつうじて、円環上部の初発の現実へと戻ってくることになる。
以上の円環モデルを一回りする運動において、現実は3つの姿で現れている。
(1) 始発点的な「現実」
(2) 可能性の領域内に埋め込まれた「現実」
(3) 潜在性の場としての「現実」
入不二は、これら3つを「回る現実」と呼ぶ。そして、これらとは水準の異なる現実として、「回す力としての現実」を導入する。この後者の現実性こそが、同書の主題となっているものだ。入不二は、この「力としての現実」について、つぎのように説明する。
「現実の現実性」は、実現・生起する「何か」という顕在的な形姿のことではない。もちろん、「現実の現実性」は、特定の分割(区別)による特定の領域のことでもない。そうではなくて、その実現・生起や局所化もまた、力の流れの一つの局面であるような、そういう全域的な「力の流れ」自体が、現実の現実性である。「現実」が、可能性の領域内の一点として極小化されるとしても、その一点は、現実性という力が通り抜ける貫通孔なのである。現実性という力自体は、その極小の穴を通り抜けて、可能性の領域を超え出て、円環全体を還流する。(同書、38-39頁)
回す力としての現実(現実性という力)は、円環モデル内部の回る現実とは水準が異なる。それは、限定された内容とは無関係な透明な力として、円環全体のうちで働いている力だ。入不二はそれを、円環の外から垂直に差し込む矢印としてイメージしている。
(以下の図を参照。下図は、同書40頁の図を元に筆者が作成したものである)
現実性という力の重要な特徴は、そこに否定が及ばないという点にある。現実性という力は、分割(区分)にもとづく個別の内容をもたない。現実性は「現にどうであるか」という内容性とは無関係なのである。その内容がなんであれ、現実として生起したならば、それが現実である。現実が内容によって決まることはない。入不二が強調するように、現実性とはむしろ「現に」という副詞的な働きであって、内容をもった名詞的な実体ではないのだ。このために、現実性には否定が及ばないのである。それは「絶対的肯定性」ともいわれる。現実性の力は、内容とは無関係に「一番外側で透明に働く」。
こうした現実性の力は、まさに円環モデルという王国に君臨する王だといえるだろう。可能性は、自らの豊穣化をつうじていったんは現実を局所化し、自らのうちに抑え込んだかに思われた。しかし、それは見せかけの勝利にすぎなかったのである。結局のところ、すべては現実性の力の作用域において繰り広げられていたのだ。
本連載が目指すのは、現実性という力が君臨する円環モデルの王国に揺さぶりをかけることである。絶対的肯定性である現実性の力に、なんとかして否定の力を浴びせかけること。そして、円環モデルの王国の外部へと通じる道を見いだすこと。メイヤスーの「事実論性」を援用し、そうした方向へと議論をシフトさせることを試みる。
▶▶ 連載02 メイヤスーの「事実論性」(近日公開)
ヘッダー画像制作:村上真里奈
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