純粋知覚のホラー
わたしたちの感覚器官は、じつは思っている以上にかなりショボい。目の解像度は初代iPhoneよりも低いし、1秒間に3回ブラックアウトする。視野の中心以外はモノクロだ。わたしたちの感覚器官は、こんな貧相な知覚データを脳に伝達している。
このスカスカなデータは、記憶をとおして補正される。かつて知覚された膨大なデータが、そこに投影されるのだ。それによって、わたしたちが現に体験している鮮やかでなめらかな知覚世界が成立することになる、というわけだ。
先日、こんなお話をベルクソン研究者の平井靖史さんからお聞きした。
* * *
ここからは怖い話。ぼくの体験談だ。
まだガラケーしか存在しなかったころ、携帯用ホームページをつくるアルバイトをしていた。そのバイト中に、おつかいで近所の関連会社のビルに行った。オートロックのエントランスを抜けるとエレベーターがある。いつも来る場所だ。ボタンを押して、一人ぼんやりしながら待っていた。しばし静かな時間。
「1」という表示のうえにランプが点灯し、エレベーターがやって来たことを知らせる。いつもどおり扉がすっと開いた。
扉が開いた瞬間、ある違和感がぼくをとらえた。子供ぐらいの背丈。そのなにかの顔に視線をやったまさにそのとき、ぼくの背筋は文字どおり凍りついた──。
顔がよく見えない。目が通常の位置にはないような感じがする。というか、そもそも目があるのかどうかもよく分からない。普通、他人と対面した場合、「視線が合う」という感覚がある。でも、それがない。
ぼくは「そいつ」の顔を見ているはずなのに、なぜか見えないのだ!
あまりの恐怖であった。いま思えば、スルッと方向転換し、いつもの勤務先へと引き返せば良かった。しかし、予想外の事態に遭遇したとき、どうやら身体はもともと予定していた行動をキャンセルすることができないようだ。ぼくの身体は、予定どおりエレベーターのなかへと運ばれていった。
「そいつ」の方もおそらく予定どおりに、エレベーターの扉を通り抜ける。ぼくと入れ替わるかたちになった。
エレベーターに入ったぼくは「そいつ」を視線で追いつづける。「そいつ」もこちらに向きを変え、ぴょんぴょんと奇怪な動きをする。顔はよく見えないが、「こちらに来たい」「ぼくに関心がある」という意志だけはそこに読み取れた。
覗き上げる顔。こちらに向かって伸ばされる手。
エレベーターという閉所に「そいつ」が入ってきたら即ゲームオーバーだ。ぼくは閉ボタンを連打した。ぼくの焦りに対して、扉はいつもどおりにゆっくりと閉まっていく。とても長い時間に感じられた。扉が「そいつ」の意志を振り切り、ようやくピシリと閉まる。絶対安全の聖域がなんとか完成した。
しばし静かな時間。だが心臓はバクバク。頭は真っ白だった。いったいなにがどうなっているのか。
しばらくすると、目的のフロアで扉が開いた。おつかい先のオフィス。なじみの人たちがいつもどおりにデスクワークをこなす、見慣れた光景が広がっていた。異世界から急に現実世界に引き戻されたような感覚だった。
知り合いの人にこの事件について伝えようと思うが、うまく伝える言葉が見つからない。いろいろ考えてみたが、結局、黙っておつかいを済ませることにした。
しかし、あれはなんだったのだろうか。「そいつ」の正体について、そのときふたつの仮説が思い浮かんだ。ひとつは、幽霊や妖怪といった超常現象的なもの。そういったものに出会ってしまったのなら、これ以上考えても仕方がない。いつか専門家の意見を伺いたいところだ。
あるいは、もう少し普通の「通常現象」的な解釈。もしかしたら、あれはなんらかの奇形の子供だったのかもしれない、という解釈だ。だから視線がうまく合わなかったのかもしれない(もし本当にそうだったとすれば申し訳ないし、不幸な出会い方であった)。とはいえ、ここはオートロックのオフィスビルだ。子供が紛れ込むなんて、どう考えても不自然である。
* * *
あの事件(「新中野の怪」とでも呼んでおく)から20年近く経つが、結局「そいつ」の正体についてはまったく分かっていない。だが、その正体がなんであれ、冒頭で紹介したベルクソンの認識モデルは、この体験に対してなんらかのヒントをあたえてくれるような気がする。
正体不明の「そいつ」は、ぼくにとって一度も知覚したことのない、まったく新しい存在であった。だから、そこでは記憶による補正がいっさい機能しえない。そこには、むき出しの知覚データ、感覚器官の貧弱な力そのものが現前していたのである。ベルクソンは、そのように記憶による補助をいっさい欠いた純粋な知覚を「純粋知覚」と呼ぶ。
純粋知覚とは、少なくとも大人にとって、ホラー的世界であると言える。通常、大人は、記憶によって補正された鮮やかでなめらかな知覚世界を生きている。だが、まったく新しい存在に遭遇すると、曖昧模糊としたホラー的世界へと投げ出されてしまう。それは、初代iPhone以下のスペックで撮影された、ピントもぶれぶれの知覚世界である。見ているはずなのに、まったく見えない世界だ。
子供の場合、事態は異なる。子供はむしろはじめから、ほとんど純粋知覚に近いような世界を生きていると言える。生まれたての赤ん坊の場合、記憶の働きはほとんど無視できるだろう。デフォルト状態において、ほぼ純粋知覚のような世界を生きている。曖昧模糊とした純粋知覚の世界を駆け回り、経験を重ねることで、記憶による補正作用を少しずつ整えていく。子供にとって、純粋知覚とはアドベンチャーなのだ。
しかし、そのアドベンチャーを終えて、いったん記憶による安定的な補正能力を獲得した大人にとって、純粋知覚はホラーでしかない。いままで作動していた記憶がとつじょ沈黙し、曖昧模糊とした知覚世界に放置されてしまうのだ。
「新中野の怪」以来、ぼくはエレベーターがトラウマになった。しばらくのあいだ、エレベーターを待つときは、かなり距離をとって身構えるようになったぐらいである。
記憶の機能を無効化する純粋に新たなものは、とつじょ「扉」の向こうからやってくる。純粋知覚のホラーは不意に到来する。心して待つが良い!
Photo by Tifith Site on Unsplash
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