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読書感想/『人間の土地』サン=テグジュペリ

『星の王子さま』を読む機会があったので、ずっと読みたいと思っていたテグジュペリの他の作品にやっと手を出しました。『夜間飛行』もこれから読む予定。

当時まだ飛行機という乗り物が命の危険と隣り合わせだった頃、常に死を感じながら、砂漠が広がる大地を、星の明かりだけを頼りに飛んでいくということの、その感情をまざまざと追体験させてくれる文章。

飛行機乗りとしての、作者本人の体験を書いた紀行文というか随筆というか冒険譚というか。

でも事実をありのまま書くというよりも、作者の思考や思想がが存分に含まれているので(むしろそれがメインなので)、随筆風の詩あるいは物語を読んでいるようなとにかく不思議な文章です。

正直、私にとってはけっして読みやすい文章ではなかったです。というかめちゃくちゃ読み辛い文章でした笑

芯は一本通ってるんだけど、語り口というか上辺の部分があっちこっちに行くもので、あれ?今なんの話してるんだっけ?となっちゃうこと多数…笑

相当集中しながら読まないと、言ってることが頭に入ってこない感じです。

でも不思議と嫌いにはなれない文章。

途中で耐えられなくなって、一つの章を口に出して音読してみると、それ以降はなんだか文章の流れのコツを掴んだというか、なんとか読み終えることができました。(喉はカラカラになったけど)

一貫して書かれているのは、広大な自然や大地を身をもって経験した作者が考える「生きる」とはどういうことか。

『星の王子さま』にも出てくるキツネも彷彿とさせる、砂漠に住むフェネックも登場します。

あととにかく名言の数々。以下いくつか引用。(新潮文庫、堀口大學訳)

努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。(p.8)

ぼくが、自分の思い出の中に、長い嬉しいあと味を残していった人々をさがすとき、生き甲斐を感じた時間の目録を作るとき、見いだすものはどれもみな千万金でも絶対に贖いえなかったものばかりだ。(p.46)

ところがいったん危険に直面する、するとたちまち、人はおたがいにしっかりと肩を組みあう。人は発見する。おたがいに発見する。おたがいにある一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。人はなごやかに笑いながら、おたがいに顔を見あう。そのとき、人は似ている、海の広大なのに驚く解放された囚人に。(p.48)

人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。(p.63)

普通、人は信じている、人間は、思いどおり、まっすぐに突き進めるものだと。普通、人間は信じている、人間は自由なものだと……。普通、人は見ずにいる。人間を井戸につなぐ縄、臍の緒のように、人間を大地の腹につなぐその縄を。井戸から一歩遠ざかったら、人間は死んでしまう。(p.212)

人間と、そのさまざまな欲求を理解するためには、人間を、そのもつ本質的なものによって知るためには、諸君の本然の明らかな相違を、おたがいに対立させあってはいけない。(中略)本然というのは、全世界に共通なものを引き出す言葉なのだ。(中略)本然というものは、けっして自己を証拠立てるものではなくて、物事を単純化するためのものなのだ。(p.246-247)

なぜ憎しみあうのか?ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ、同じ船の乗組員だ。新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立することはいいことかもしれないが、これがおたがいに憎みあうにいたっては言語道断だ。(p.251)

たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる。そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる。なぜかというに、生命に意味を与えるのは、また死にも意味を与えるはずだから。(p.252)

ちなみにこの本を手に取ったのは、『星の王子さま』を再読したからという理由が一番大きいのですが、もうひとつ、伊坂幸太郎の『砂漠』を最近読んだから。

この『砂漠』、『人間の土地』の引用が随所に出てくるのです。それで気になったというのがもう一つの理由。

今思うとそもそもこの『砂漠』というタイトルは、完全にテグジュペリから影響を受けているタイトルですよね。

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