母娘3代にわたる闇と浄化
母の現実を見る
父親が亡くなり母と暮らし始めたのは、母80歳、私が50歳の時でした。
一緒に暮らし始めて驚いたのは、普通のコミュニケーションがとれないことでした。
何かの問いかけにまともな答えがかえってこないのです。
挨拶もありがとうもごめんなさいも言えない・・
こうだからこうだよねという考え方はできない。
わからないから、わかったふり、人の言ったことをそのまま真似ます。
最初はわかったふりとは思わないので、何か不都合が生じると怒り心頭になってしまいました。
外出から戻ると、「おかえりなさい」と声をかけても、挨拶もせず、外で感じた不満や怒りをここぞとばかりに私にぶちまけます。
まるで私が悪いといわんばかりに・・・・
こちらは気分が悪くなるのに、母は言い終わるとすっきりするのか、自室にこもって声を上げて笑ったりしながらTVを見ます。
こうなったらこうなるだろうという予測、相手の気持ちや都合などまるでわからず、
自分の都合だけ、自分のペースがうまくいかない、自分が注目を浴び、賞賛されないと不機嫌になる、
外ではそのままの態度をしてはいけないことはわかっているので、不満や鬱積は全部私にぶつけられました。
無責任、いい加減、おっちょこちょい、ダメ、わからずやなどのワードは、
私が散々言われてきたことですが、それらはそのまま母に当てはまりました。
認知症を疑い、自己愛性人格障害を疑い、最後に辿り着いたのは発達障害でした。
2年半前くらいの昔のブログです。
この頃、老人の発達障害について言及している医者はほとんどいませんでした。
ごく最近、認知症と診断される老人(大人)の中に、発達障害と思われる人がかなりいるという事が理解されるようになってきたようです。
母は発達障害だと思うと周囲に言っても、認知症でしょうと一蹴されることが本当に多かったです。
ずいぶんと昔のことになりますが、私が発達障害を持つ幼児・子ども・青年に関わってきたことを説明しても、やはりなかなか理解してはもらえませんでした。
医療関係者ですら、認知症と発達障害の見極めが難しいようなので、仕方のないことたったのでしょう。
虐待の連鎖
老母と暮らし始めて、普通では理解不能の母の言動に戸惑い、振り回されなら、いったい母はどういう育ち方をしたのだろう・・・と思ってきました。
母方の祖母と祖父が結婚したときのことは詳しく知りませんが、母は釜山で生まれています。
祖父が軍人だったので、当時、日本が統治していた朝鮮に砲兵として赴任していたのです。
母が生まれたのは祖母が20歳の時です。
祖母の周囲に子育てで頼れる人がいたのかどうかはわかりません。
20歳で日本とはいえ、なかば異国の地で子どもを産み、祖母はいったいどのような状態だったのだろうかと思います。
おばさん(母の妹)の話によると、母は赤ん坊の頃、朝鮮人のねえや(子守)に日中預けられていたようです。
おばさんは母と性格がまるで違います。
早くに旦那さんを亡くし、長年保母を務めながら、男兄弟三人を育て上げ、田舎の親戚付き合いもこなしてきた元祖キャリアウーマンともいうような人です。
一週間前ほどの前の寝入りばなに、突然、祖母(若い様子だけれど祖母とわかりました)と赤ん坊(母)の姿が見えました。
祖母は鬼のような形相で赤ん坊の母を叩いたり、半ば投げつけるように虐待している映像が浮かびました。
赤ん坊の母は叫び声に近い泣き声を上げていました。
短い時間だったと思いますが、私の体は震え、恐怖と悲しみの感情に圧倒されながらその映像を見ていました。
とても衝撃的だったのですが、涙を浮かべながらそのまま寝入ってしまったようです。
明け方、昨夜の映像と感情を思い出しました。
母の人格がどうしてあのようなものになってしまったのか、はっきりと理解しました。
母はごく幼い頃の虐待により、正常な脳の発達ができなかったのだと思います。
虐待と日本語を母語としない人に預けられることによって、さらに母の脳の発達はひどく偏ったものになっていったと推測できます。
参考記事
今の私は、祖母を責める気持ちは全くありません。自らも長女を産んだ後は友人も頼るべき母も本当の意味であてにならず、孤独な子育ては本当に辛かったです。
祖母の苦境はよく理解できます。
その1週間後の夜、お風呂に入ってリラックスしていると、また突然映像が見え始めました。
今度は赤ん坊の私が母に虐待されている映像です。
私は1歳前後の赤ん坊で、言葉もよく理解できないようです。
裸のお尻を何度も叩かれ、何が何だかわからない様子で泣いています。
泣き続け、泣き疲れ、あやされもせず、おっぱいももらえず、あきらめて、そのまま眠ってしまったようです。
それが何度も何度も繰り返される、そんな映像でした。
私の感情は怒りではなく、ただただ深い深い悲しみでした。
肚の奥底からなんども深い悲しみがこみ上げました。
「3歳までは覚えてないから叩いてもいい」
いつのことだかわからないのですが、母がこう言ったのをよく覚えています。
無意識に自動的に生きていると、虐待は連鎖します。
自らの言動をコントロールしようとする強い意志がなければ、いとも簡単に幼い頃に大人から受けた仕打ちを繰り返してしまうのだと思います。
顕在意識では覚えていないけれど、この虐待が後に、私の大人に対する不信感、この世に対する憎悪に近い憎しみにつながっていったと思います。
その後の私の状態はこの記事に書きました。
許しと感情を手放し
母が発達障害だと完全に気づいた時に、私は母のことを許しました。
目が見えない人が町や外を歩く時に、介護者や杖が必要です。
母の場合は人の気持ちがわからないのです。
誉められれば単純にうれしいけれど、なぜ注意されたり叱られたり、怒られるのかが理解できないのです。
母に友人がいないのは、人の気持ちや感情を理解できないからです。
表面上のやり取りは型どおりに言葉をつなぐことでこなしても、そこに感情や心の機微を読み取ることはできないのです。
それを理解したときに、目の見えない人が杖や介護者なしに外を歩かなければいけないようなものだと理解しました。
挨拶すること、ありがとう、ごめんなさいを言うことなど、当たり前すぎて誰にも教えてもらえなかったのです。
許しはしたけれど、置き去りになっていたのは私の感情でした。
この感情をやっと解放することができました。
ごくごく幼い頃に押し込めた感情を手放すまで、時間がかかってしまいました。
何故、深いところにしまい込んだ感情の手放せたのか・・・
書き出すと長くなってしまうので、簡単に。
私が取り組んできたサウンド・アロマ・カラーなどの周波数が見えない領域に有効に働いたと思います。
また、地球の周波数が上昇しているので、より早く簡単に素早く手放すことができるようになると思います。
ガイド(5次元)と共に
2020年5月ある日の明け方、ふと目を覚まして懐かしいエネルギーを感じました。
3次元の物理的な視覚では見えないのですが、誰かがいるのがわかりました。
「あっ○○○・○○○○」
ある名前が浮かびました。
この名は今はまだ言えませんが、時期が来たらお伝えすることになるやもしれません。
その後、いつも一緒にいるのがわかるのですが、
具体的に何かを教えてくれることはありませんでした。
ただ私が直観的に何かの学びや惹かれるもの、行動することに閃きやヒントという形で導いてくれていました。
その後、何気ない会話をするようになっていき、質問したことに答えてくれることもありました。
地球の今の状況、今後の展開、真の歴史や今後などアセンションに関わることについては一切教えてくれませんでした。
昨夜からかなり具体的なことや詳細を教えてくれ、他の5次元存在からもメッセージがきました。
どうやら、私の3次元・地球上(過去生含む)でのトラウマの傷・感情の癒しと浄化が完了したからのようです。
また新しい旅路が始まる・・・・・
そんな予感がしています。
この記事をもちましてマガジン Spiritual Journey の完了とさせていただきます。
ここまでお読み下さりありがとうございました。
読者の皆様に心よりの感謝と愛をおくります。