沈んでしまったもの #かくつなぐめぐる
子どもの頃。
その年のいくつ目かの台風が、深夜に猛威を振るって過ぎ去った後、目覚めると通園路が消えていた。
本当なら、家の前から南に向かう道は、緩い坂を下って小さな橋を渡り、T字路を右折して、保育園に続いている。
ところが、この道の手前3分の1が、泥水に沈んでしまった。
坂の下から橋の向こうまで、まもなく刈り入れを迎えるはずだった田んぼが大量の泥水であふれ、稲穂がすっかり見えなくなっている。
生まれて初めて見る洪水。
農業用水が、どこかで堰き止められてあふれたものらしい。
坂の下は、洪水の様子を見に来た人でいっぱいだ。
緊急事態だ。
当然、保育園は休園だったろう。
けれど、私は皆勤賞を狙っていたので「どうにかして行かなきゃ!」と、汗ばむ手のひらをぎゅっと握りしめた。
年度末にご褒美にもらえる、お菓子の首飾りが欲しくて欲しくて、なんとしても皆勤したかったのだ。
そこに、近所に住むキシオくんが
「どいて、どいてー!」
と言いながら坂を下りてきた。
当時、私たちは、坂の上にある古い市営住宅に住んでいた。
戦後すぐに建てられたという20戸余りの木造住宅には、同世代の家族がたくさん入居しており、子どもたちの年齢も近い。
ご近所付き合いが濃く、親同士も顔見知りなので、子どもたちも毎日一緒に遊ぶ。
市営住宅内には、小学生を中心とした子どもの群れができあがっていた。
けれど、ビビリの私は、ずっとそこに馴染めずにいたのだった。
キシオくんは、3兄弟の長男で、5年生になっても女の子のスカートをめくって歩くようなアホたれの、いばりんぼうだ。
私は、しょっちゅうキシオくんにからかわれ、泣かされていた。
当時、男の子というのは野蛮な異世界の住人で、キシオくんに限らず、何を考えているのかわからない宇宙人だった。
怖くて、全然好きじゃなかったし、いっしょに遊ぶなんて、考えられない。
しかし、この時だけは違った。
キシオくんが、お手製の小舟を押して坂を下ってきたから。
その舟は、ほぼ直方体で、表面はベニヤの小片であちこちつぎはぎだらけのボロだった。
けれど、舟は舟だ。
希望の船、エスポワール号だ。
これで、この泥の河を渡って、園まで乗せてもらえるかもしれない。
キシオくんは、夏休みに端材を集めて、舟を作っていた。
早朝から釘を打つ音がトンテンカンとご近所に響き渡り
「キシオ、うるせえ!」
とお父さんに、ゲンコツをくらったりしながら、完成させた舟だ。
水に浮かんだその姿を見て、私が作ったわけでもないのに、なんだかとても誇らしい気持ちで、高揚してしまった。
しかし、周りの大人たちは、みなニヤニヤして様子がおかしい。
「あれ、大丈夫だと思うか?」
「大丈夫なわけねえだろ」
「だよなあ。1分もつかね?」
なんと、皆、キシオくんの舟が沈むのを期待しているのだ。
良識的な大人が増えた今なら、誰かしら
「危ないからやめろ」
と言いそうなものだけれど、当時、私の周囲には、そういう大人はいなかった。
それどころか、キシオくんが舟もろとも沈むのを期待し、ワクワク眺めていたのである。
長い竹竿を持ったキシオ君は、颯爽と舟に乗りこむと、泥の海へ漕ぎだした。
ひと漕ぎ、ふた漕ぎ。
船はゆっくり進む。
けれど、岸から5mも離れないうちに
「ああああああっ!」
という、キシオくんの悲痛な声が響いた。
舟底から水が入ってきたのだ。
見ている大人たちが、どっと湧く。
そのまま、舟は進むことも戻ることもできず、浸水して沈んでしまった。
大人たちが大笑いしている後ろで、皆勤賞の夢が絶たれた私だけが、号泣していた。
私はその日以来、都合よく勘違いしてくれたキシオくんに気に入られ、悪ガキたちの遊びの群れに加えてもらえるようになった。
いばりんぼうのキシオくんは、仲間に対しては寛大なリーダーだった。
最初の怖い印象はすぐに消え、あこがれのお兄ちゃんになった。
おみその私から見ると、6つ歳上のキシオくんは何でもできるスーパーヒーローだった。
隠れんぼ、鬼ごっこ、ドロケイ、石けり、ゴム飛び。
全部、群れの中で教わった。
できないことは、助けてもらったり、庇ってもらったりしながら、悪ガキの仲間の1人にカウントされるようになったのだった。
子どもの頃に過ごした世界は、狭く閉じていて、ぬくぬくと安心な場所だった。
私はここで、ずっとキシオくんたちと、遊び続けていられるのだと思っていた。
けれど、群れは永遠ではない。
成長するにしたがって、安心を退屈だと感じるようになると、やがて私たちはバラバラになった。
以来、数十年。
今、田舎に帰っても、記憶の中の風景はどこにもない。
あの日、泥水に沈んだ田んぼは、埋め立てられて宅地に変わった。
スーパーヒーローのキシオくんも、宇宙人のように話が通じない男の子たちも、気づけばアラカンだ。
立派なおじさんになっていることだろう。
もう頭の中にしかない、懐かしい世界。
思い出すと帰りたくなるが、2度とあの時のメンバーが揃うことはない。
キシオくんのフルネームすら、記憶の底に沈み、見つけられずにいる。