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魅惑の小笠原②
前回の続き。
私が小笠原のことでものすごく気になっているのが、現在の島民の言葉だ。
昭和44年刊行の「小笠原ー南海の孤島に生きるー」という本には、アメリカ統治が終わって、日本に返還されたばかりの小笠原の貴重な話がたくさん出てくる。
そこで描かれる小笠原は、日本と心の距離が遠い島だった。
終戦が1945年。
その前年には、小笠原が激戦地になることを見越して、島民は全島避難させられている。
慣れない東京で、あの3月10日の大空襲に遭われた方もいるという。
終戦後、島民は島へ帰ることを希望したが、日系の方々が帰島できたのは戦後23年経過した1968年のことだった。
しかし、西洋をルーツに持つ島の人たちは、もっと早い戦後1年目の1946年には帰島を許されている。
それには、戦時下の国民同士のいやぁな分断が原因としてあった。
明らかに西洋の顔立ちをした漂着民の子孫の人たちは、長く小笠原に住んでいても「スパイ」だ「非国民」だと蔑まれて、日本国内で差別に遭い大変な苦労をしていたというのだ。
それを知ったアメリカの方から、西洋をルーツに持つ者は先に島に戻って良いという通達が出たのである。
先に島に戻れた西洋系の彼らは、物資も豊富で何かと融通のきくアメリカの統治下で何不自由なく暮らしていた。
差別してくる日本人もいないし、アメリカは豊かで、仕事もくれる。
子供たちに教育も与えてくれる。
このまま、アメリカ国籍を取得できたらいいのに、と多くの人が思っていた。
ところが、返還である。
自分たちは、日本国籍を持たされ、今後教育は日本語で受けることになるという。
それまでは、島中、どこに行っても英語を使って暮らしてきたのに。
小笠原は日本に戻り、東京都に帰属することになった。
困ったのは島の人たちだ。
これまで米軍の雑務を引き受けて暮らしてきた人たちは、米軍撤退で雇い主がいなくなる。
代わりに置かれた日本の行政府では、日本語がわからないと仕事が得られない。
公用語が変わることで、お金が稼げない世界にガラリと変わってしまったのである。
そんな中でも、子供たちは年少者ほど適応が早く、どんどん日本語を吸収していった。
しかし、大人になるほど日本語の学習は進まず、結果、島内には、ルー大柴のように英語混じりの日本語を操るお年寄りが今も多くいらっしゃるのだという。
「ルー大柴みたいなおじいちゃんとおばあちゃんがたくさんいる島!」
その複雑な背景に想いを馳せるとワクワクするのも不謹慎かもしれないが、聞いた瞬間、ここに行ってみたい、と思ってしまった。
小笠原固有の自然も魅惑的だが、小笠原にしかいない、戦争の犠牲者のようなお年寄りたちは、言い方は失礼だが、まもなく絶滅してしまうレッドリストの生物だ。
話が聞けるうちに聞いてみたいじゃないか。
日本の他の土地では絶対に聞けない、時代に翻弄された人生譚を聞いてみたいと思ってしまう。
(しかし、まだツアー参加は悩み中)
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