反・自殺論考2.21 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生
ラッセルの誤解
唯一にして最後の希望であるラッセルとの会談は、1919年の12月12日にオランダのハーグで実現した。
まだ戦禍の残るこの時期、復員兵のヴィトゲンシュタインと、反戦運動の廉で投獄され、まだ出国が制限されていたラッセルの両人は、中立国で会うしかなかったのだ。
しかし毎朝ホテルの部屋のドアを叩かれ、ラッセルが「私が個人的な話をほとんどできないほど論理学に熱中した」と元恋人に手紙で報告するほど議論を重ねた一週間には、ヴィトゲンシュタインも並々ならぬ充足感を覚えたようだ。
意見の相違は多少ありつつ、ついに自著の理解者を得られた気分に浸ったヴィトゲンシュタインは、年明け早々の1月8日、ご機嫌な文面が綴られた礼状を送っている。
その実ラッセルは、愛弟子の変化に少なからぬショックを受け、こんな手紙を元愛人に送っていたのだった。
※ ややこしいから補足すると、ラッセルが「論理学に熱中」と報告した「元恋人」というのは、戦中に付き合って入獄後に別れた元恋人の女優コレッティ・オニールであり、次の手紙の宛先の「元愛人」とは、戦前から不倫と文通を重ねていた人妻オットリーン・モレルのこと。
益々ややこしくなるが、ここハーグには秘書のドーラ・ブラックが帯同しており、現恋人でもあった彼女は二年後に男児を産み、その子に爵位を継がせるためにラッセルは、長らく別居中だった妻と離婚してドーラと再婚した。
益々々ややこしくなりますが、お暇な方は下記をご参照ください。
だが、そうとは知らないヴィトゲンシュタインは、ラッセルが『論理哲学論考』のために、解説も兼ねた序文を書いてくれることになったと喜び、こうフィッカーに報告している。
そして直後、原稿を送った出版社──今も昔もドイツの名門で、岩波文庫のモデルとして知られるレクラム文庫を世に出したレクラム社──にも「ラッセルの序文があるなら」という条件付きで出版に前向きな反応を示されたため、もう後は序文が出来上がってくるのを待つばかりの、誰にとっても安全な本になった。
かに見えた。
が、
序文を読んだヴィトゲンシュタインがそうラッセルに書き送り、一応ドイツ語に訳してみてからも「あなたの洗練された英語の文体は失われ、ただ残されたのは浅薄さと、誤解でした」という追信を送ることになってしまうのだ。
えええ、一体どこに同意できなかったのか。。
文字通り「極めて多く」あるので紹介しきれないが、代表的かつ著名な誤解を挙げるなら、三年後にフランク・ラムゼイという若き天才──哲学者、と呼びたいところだが、ヴィトゲンシュタインはラムゼイの知性を高く評価していながら「哲学者」とは認めていなかった。したがって──数学者によって指摘された点であろう。
即ち、彼が哲学誌に寄せた『論理哲学論考』の書評において、
と指摘した点である。
要するに、ラッセルが『論理哲学論考』という本の目的の一つを、不完全な日常言語よりも意味するところが明確で、事実を物語るのに適した「理想言語」を追求することと見なしたのに対して、当のヴィトゲンシュタインは「自分の理論が日常言語にも適用される」と考え、たとえ理想言語を使って世界の事実を全て語りえたとしても、なおも語りえぬことが世界の外にある、という神秘的感情を提示したのではないか、とラムゼイは解釈したのである。
事実、そうなのである。
しかも誤解に留まらず「興味深いのは、神秘的なものに対するヴィトゲンシュタイン氏の態度です」とラッセルは書き継ぎ、ハーグでの会談時に痛感させられた「考えることをやめさせるその力」にも懐疑の念を隠さない。
という具合に。
おまけに疑念に留まらず、こうした著者の沈黙に対して、
とラッセル先生は、読者の気持ちを代弁しているように見せかけて、自らが考案したのに『論理哲学論考』では否定された「タイプ理論」に対する未練までタラタラ述べているのだ。
「全く同意できない」
とヴィトゲンシュタインが断じたのも当然だろう。
本の目的を見誤り、的外れな疑念を寄せ、そのうえ論外な意見すら加えているこの序文は、沈黙しなければならない。
そう決意した彼は、ほぼ出版の意向を固めていたレクラムに対し、ラッセルの序文は出版用ではなく、御社に本の内容を知ってもらう紹介用であり、つまりは掲載してくれるなと通告する。
その結果、
という言葉に続いて『論理哲学論考』を『純粋理性批判』に準え、本の出版が百年後だろうが「どうでもいい」旨の例の記述が書かれるのである。
その後、レクラムは実際あっさり出版を断ってくる。
その前にエンゲルマンに宛てて、こうヴィトゲンシュタインは書いた。