反・自殺論考2.15 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生
もっと善ければ
度々これまでもヴィトゲンシュタインは、部隊の転属を希望してきた。
理由としては、従軍当初から「低俗なならず者」「信じがたい粗野、暗愚、悪意」「人間の中に人間を認められない」などと日記に(暗号で)書き殴り、今の自分は「かつてリンツで学校に通っていた時と同じように、裏切られ、見棄てられている」と被害妄想にも駆られるほど切迫した、同僚兵士との軋轢がまず挙げられる。
それどころか、一部の指揮官たちに対しても「粗暴で愚鈍」「なんて低俗な声だろう。世界の全ての劣悪さがキイキイ軋み、ゼイゼイ喘ぐ声が鳴り響く」などとバレたら懲罰ものの文句を書き連ねたのはここだけの話だが、歩兵に転属する話が出たのも初めてではない。
1915年3月5日の日記に、配属について上官と話し合ったが「まだ決着しない。恐らく僕は歩兵として前線へ行くだろう」とある。
それでも実際に前線へ行って以降は、
などと相変わらず(暗号で)書きながら、
というような、自らを叱咤する記述が増える。
それなのに今回また、改めて転属を希望した背景には、かつて研究に行き詰った際に催眠術に頼り、人間関係を断ち切ってノルウェーに引きこもり、戦争が始まるや従軍し、死に近づくことで「生に光をもたらす」べく、前線任務に志願した時と同様、己の義務を果たすために必要なのだ、という確信があったのだろう。
この「義務」とは、むろん『論理哲学論考』の完成である。
そう考えると、理解が難しいのである。
というのもヴィトゲンシュタインは1917年6月、休暇でウィーンの実家に帰省しているが、注目すべきは、その直前に長姉ヘルミーネから送られた6月7日付の手紙である。
なんと、『論考』の原稿のリストが添付されているのである。
それは半年前の帰省時、ヴィトゲンシュタインの口述を長姉が表記したものらしく、そのリストを見ると、完成稿ではないものの、複数の手稿とタイプ(ライターで打った)原稿が作られ、そのうち幾つかがラッセルやオルミュッツの友人、そして親友ピンセントの手に渡っていることが分かるのだ。 そして更なる要注目は、これらの原稿と一緒にラッセルが、何故か「金時計」も一緒に受け取っていること!
ではなくて、この手紙の隅にヴィトゲンシュタインの直筆で、
「Worüber man nicht reden kann, darüber muß man schweigen」
と書かれていること!
おそらく手紙を受け取った際に書き込んだのであろう。
これを和訳すると「話しえぬことについては、沈黙しなければならない」になる。
即ち「reden」を「sprechen」に書き換えれば、そのまま『論考』の最後の一節「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」になるのである!
(と言い切りたいところだが、冒頭の「Worüber」も「Wovon」に換えなければならない)
ということは、どういうことかというと、仕事は着実に完成に近づいていたのであり、事実およそ一年後には完成するのである。
しかも結局のところ、転属の希望は通らなかったので、結果だけ見れば、すでに義務は果たされうる状況だったのだ。
にもかかわらず、今さら何故わざわざ歩兵になり、自殺志願じみた真似をする必要が?
実は答えらしきものは、戦場に戻ったヴィトゲンシュタインが長姉に宛てた以下の手紙に見つかるのだが、たぶん彼女は理解できなかったのだろう。
ちなみに文中にある「エンゲルマンがうまくやっている」というのは、彼が依頼されたヴィトゲンシュタイン家の内装リフォーム工事の件である。
ひとまず仕事が「悪い方には向かっていない」ならよいではないか、と常人なら思うところだが、それではダメなのだ。
もっとよくなければ。
仕事も自分ももっと。
そのためには、今いる場所に留まらず、一兵卒になって己を更生すべく、再び死に近づく必要がある。
年明けにエンゲルマンに送った手紙は、もっと率直である。
仕事だけが良い方向に向かってもダメなのだ。
もっと「善い人間」にならなければ。
善いと賢いは「同じ一つのもの」なのだ。
「無駄です」
というわけで、これ以上ヴィトゲンシュタインの「善」を巡る心理について、憶測で物語るのは止めよう。
「超越論的」といえば、ノートには「倫理は超越的である」と書かれたのに、完成した『論考』では「6.421 倫理は超越論的である」と書き改められた話もやめよう。
半年後、彼は人生最大の自殺の危機を迎えるが、その理由は平手打ちのように明確だからである。
1918年の夏、論功行賞か、あるいは体調を考慮されたのか、およそ二か月の休暇に入ったヴィトゲンシュタインのところに、ピンセントの母から七月六日付の手紙が届く。
親友の訃報が。