スポーツブランドの新作スニーカー、協賛企画の限定品など重要と供給がアンバランスな物を購入してお小遣いを稼いでいる、というような話は昔からある。 いつだったかそういった品の企画に携わったであろう人が「転売ヤー良い加減にしろ!」みたいな内容をSNSに投稿しているのを見た。欲しい人が買う意外は許さん、的な意味なのだろう。しかし数量限定とかで煽って売るような売り方をするからそうなるのであって、そうなりたくないのであれば販売方法を買えるべきだと思う。手にとれば理解できる企画の良さが売
ミニマルな生活が上質みたいな価値観に従い、色々なものを削ぎ落としていく。あれも無駄、これも無駄といった具合に…しかしあらゆる不必要を切り落とした後に残ったてめーの必要性を世の中に訴えかけるのができるのだろうか。自分から何かが出てくる人間でもない限り削ぎ落としていく行為は非常に危険である。そう、今日もいらん服買っても良いということです。
服は上質な物を必要な量だけ。みたいなありふれた文言に従うと、少量を狙い撃つような買い方になる。経験値が低い人間による高い精度なんてものはないので、大体が用意された上質、用意された必要を少しづつ何度も買わされることになる。撃ってるつもりでいるが撃たれてることに気付いた方がいい。
親切、丁寧な接客を受けての買い物は心地が良い。しかし持ち帰った洋服の物質的な良し悪しと接客の心地よさとの間には一切の関係が無い。物は物であり入手にまつわるストーリーは付加価値だ。あなたは手元にあるお気に入りの洋服を前にして、ただ物として好きなのか、周辺のストーリーが好きなのか、考えたことはあるだろうか? 若くてお金が無い時に、何とか捻出したお金で買った物が後年に経済的に余裕を持って買った物よりも思い入れが強いということがある。この思い入れの原材料には、物としての魅力とは別に
有料記事に設定にしていますが無料で読めます。面白いと思ったら、購入手続き、サポートをお願いします。 35歳。洋服が好きで色々な洋服で自分を着飾ってきた。奇抜な服装や髪型で街を歩き、人から指をさされて笑われたこともある。その度に「俺はこういうのが好きでやっている、お前らのことなど気にしていない!」と心の中で唱えつつ、滅茶苦茶気にしながら生きてきた。いや、生きている。 好きでやってることがたまに辛く感じることもある私は今日、意識的に街に溶け込む服装で出掛けている。心なしか街が
ZARAにあってユニクロに無い物→買い物する楽しさ。
古着量販店に買い物に来たキッズが「ボロ雑巾とビンテージはどこで区別するん?」というかなり難しい質問を友達にむけて放ってました。
価値を手に入れるためにブランド物を買うという思考だと、どんどん価値に対して鈍感になっていく。
消費を堅実に行おうとすると消費する意味が失われていく。 堅実な消費という問題 https://note.com/preview/n40f7df8903f5?prev_access_key=ffb5d1a742b6b4e86c2078bafbeb0224 消費に堅実性を求めた先にある物は何なのか? 洋服が好きな人もそうでない人も成人男性が1本目の高級時計にロレックスを選びやすい、という傾向がある。 物を入手する行為を、【見た目が好き⇔見た目が好きではない、といった自分の
定価も相場も無い古着の世界ではどんな値段をつけるのも自由だ。しかし高額である理由が、最近どこもこういう値段なので、と、格好良くてとても気に入ってるので、では客の感じ方は大きく異なる。今日行ったお店においては「俺は知らんけどオーナーがそういったので」という心の声が聞こえた気がした。
10年も同じ店に行き続けていると、無言でまたお前かぁーという顔をしている店員に遭遇する。うって変わって新人店員にはキラキラした顔でいらっしゃいませと言われる。 「欲しい物が見つかるかも」という期待感を私がお店に10年通い続けても抱き続けているように、ベテラン店員も「この人何か買ってくれるかも。」という期待感を10年経過しようが抱き続けるべきだ。 正論なのに、それは無理だろ、と販売員経験者の私は思うのである。
中学生の時にヌメ革の長財布を16000円で購入した。 アルバイトはしていなかったし、お小遣いを貯めた記憶もないのでお年玉か何かで買ったのであろう。 学生服の後ろポケットからはみ出るコンチョボタン、格好良さの演出と紛失のリスクを軽減してくれるウォレットチェーンが誇らしい。 学生服にバイカーテイストのウォレット、今考えるととてつもなくダサいのだが…しかし客観的な視点を持っていない当時の私は眩しいほどに輝いていた。自分の世界で。 あれから20年、ノスタルジーと共に所有してい
インスグラムのアカウントに突然○○○(洋服のブランド)ってダサいですか?答えて下さい。とDMがきた。無視&ブロックすると別アカウントでDM、同じ内容のコメントが繰り返し入った。その人はなぜか私が○○○というブランドをダサいと思っていると決め付けていて、僕はそうは思いませんけど、と喰ってかかってくる。知らんがな。マクドナルドでハンバーガー食ってたらダサい、銀座で寿司食ったら格好いい、なんてことが無いように、特定のブランド衣料を身につけて格好良い、となることも、ダサい、となること
インスタのストーリーで洋服に対する拘りをフォロワーに聞いてみた。 共感できるものからワケのわからないものまで…回答していただいた方々ありがとうございました。素材、生産国、同じ物であればより起源に近い物を、私もそういったことに長く執着してきました。その結果そういった付属情報はどうでも良くなりました。この質問に私が回答するとすれば【自分が納得する物を選ぶこと】となるのですが、その自分の考えが変わり続けるため、私は【拘りはない】という回答にしました。 拘りとは何なのかを考えてみ
半年以上前にファッション系のウェブサイトに取り上げられた【衣服デザインのパクリ】を扱ったニュースについてインスタグラムのストーリー機能を用いてフォロワーにどう思うか、質問してみた。衣服に興味が深いであろう方々から様々な質問や意見をいただき、それに対しての回答を綴っていった。 デザイン模倣問題をスタートに、ブランドの考えを探る作業、思考の整理は、衣服の世界に留まらない生き方の理想を示してくれた。 全体を以下の5つの項目に分けて記載した 【デザインの模倣】 【パクる意味】
良く食事するとんかつチェーン店がキャベツ、味噌汁のおかわりが無料というサービスを強く打ち出している。質問の形式をとり押し付けてくる。「きゃべつ、みそ汁のおかわりはいかがですか?」と。今日も2回目までは断れたのだが、人員を入れ替えながらの3回目で陥落した。徳は感じるものなのか、与えられるものなのか、サービス精神も行き過ぎると窮屈な気がする。日本の外食サービスは素晴らしい、日本を出て外食する機会の多い人達はそう口を揃える。素晴らしい物も蔓延すればその中での優劣順序が割り当てられる