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掃除と祈りの共通点(其の2)

昨日の記事の続きです。

https://note.com/moriyoshizan/n/ncc281544abf7


「祈り」と「掃除」が生む、より深い変容

山奥で暮らしていると、大きな自然の循環の中に身を置くことで、自分という存在が「巨大な世界のひとかけら」に過ぎないことを肌で感じやすくなります。天候は容赦なく移ろい、四季は刻々と森の姿を変えていく。そこでは、自分の思いどおりにならない現実や生命の神秘と日常的に向き合わざるを得ません。こうした生活環境は、私たちに謙虚さや畏怖の念、そして感謝の想いを呼び覚ましてくれます。

祈りは、そうした大いなる存在――人知を越えたもの、あるいは自然そのものや神仏へ――意識を向け、心身を「整え」「開く」行為だと言えます。では、掃除や清掃はどうでしょうか。一見すると、祈りとはまったく別の行為に見えます。しかし、より深く掘り下げると、この二つには共通する本質的な意味合いが潜んでいることに気がつくことができます。


1. 「場」と「身体」を媒介として心に触れる

祈りは「身体」を使った心の営み

祈りの場面をイメージすると、多くの場合、手を合わせたり、座して頭を垂れたりといった身体的動作が伴います。頭の中だけで行う「念じる」行為ではなく、実際に手を動かすことで「自分の心がいま、祈りという行為をしている」と自覚できるのです。いわゆる「坐禅」も、背筋を伸ばして座るという身体の姿勢が、心をあるべき位置に戻していくことと深く結びついていると教わりました。

掃除・清掃は「場」を用いた心の営み

一方、掃除や清掃は、物理的には「汚れを取り除く行為」ですが、その過程で、私たちは「汚れ」という具体的な対象を扱いながら、自分の内面に付着している煩悩や雑念のような存在に気づくことができます。部屋の隅に溜まった埃や庭の落ち葉、側溝の泥を取り除くとき、「ああ、こんなに溜まっていたのか」と、外部の汚れを通じて自分の意識の散らかりにも目が向くような気がしてくるのです。ときには掃除自体を面倒に感じたり、投げ出したくなる気持ちに襲われることもありますが、それこそ自分の心のクセや執着のありかが映し出されているのかなぁと思ったり。


2. 「浄化」と「空(くう)」の感覚

「空(くう)」の発想

仏教全般で説かれる「空(くう)」とは、“すべての存在は固定的な実体を持たず、相互に依存している”という教えです。掃除や祈りという行為を通じて生まれるのは、まさに「自分」だけが存在しているのではなく、「場」や「他者」や「自然」との相互依存関係の中にあるという実感です。掃除をしなければ家も庭も荒れ放題になり、私たちがどれほど自然や家屋の恩恵を受けているかに気づかされる。祈りでは、自分の願いや感謝が「独りよがり」ではなく、大きな流れの中で活かされていることを実感します。

「浄化」行為の真意

また、掃除によって空間が清められ、心も澄んでいく感覚は、「外の汚れと内の汚れ」が相互に対応しているからこそ生まれるものです。祈りにおける「浄化」とは、罪や穢れを洗い流し、あるべき姿へと立ち戻ること。掃除・清掃もまた、「場」を整えることで、自然と自分の内側の乱れを鎮め、本来的に清らかな状態に帰ろうとする行為といえます。それは畏敬の対象が“清浄である”からこそ「自分もそれにふさわしくあろう」とする、ある種の美意識や道徳観にも通じていくものではないでしょうか。


3. 繰り返しに宿る「真の継続性」

一度きりでは終わらない

祈りも掃除も、一度行ったからといって完結するものではありません。例えば、掃除はどれだけ念入りに行っても、やがてほこりはたまり、落ち葉は積もります。祈りもまた、日常の中で生まれる雑念や不安が絶えることはなく、「祈ったから完璧」というものではありません。この「不完全性」あるいは「永遠に繰り返すしかない」という性質こそが、人間のあり方を象徴しているようにも思えます。

毎日の積み重ねが生む変容

掃除や祈りを「面倒なタスク」と捉えるか、「日々の心身のメンテナンス」と捉えるかによって、私の生活の質は大きく変わりました。禅の修行においては、坐禅や経典の学習だけでなく、作務(さむ)と呼ばれる日常作業を重視するのは、「人間の身口意(しんくい)の全体を修行の場にする」という狙いがあります。身(からだ)を動かし、口(ことば)を正し、意(こころ)を整える。これはあらゆる瞬間において行われるべきことであり、だからこそ掃除や炊事といった日常行為も修行になるという教えです。


4. 山奥で感じる「つながり」と「差し出す」感覚

自然の大きさを前にした「小ささ」の気づき

山深い場所に暮らしていると、自分ではどうにもならない自然の摂理や荒々しさに圧倒されることがあります。豪雨で道が寸断されたり、猛吹雪で一歩も外に出られなくなることもあるかもしれません。そのような状況で生きるとき、人は自我が自然に溶かされ、謙虚にならざるを得ません。「祈り」は、その謙虚な気づきを形にした行為です。

掃除がつくる調和と奉仕

一方で、掃除や清掃は、外部に散らばった「雑多な要素」を整え、より良い「場」を創出する行為です。言い換えれば、それは“自分”のためだけではなく、“他者”や“そこを訪れる者”のために空間を準備する「奉仕」の姿勢でもあります。山奥であっても、家族や仲間が訪れるかもしれないし、あるいは野生動物が庭先を通るかもしれない。自分が去った後であっても、その場所が清浄であるようにしておく――そうした配慮や思いやりは、祈りが持つ「他者とのつながりを想う」精神と響き合うのではないでしょうか。


5. 「自分を空け渡す」ことで満たされるもの

祈りと掃除にある「自他不二」の感覚

仏教における「自他不二(じたふに)」とは、自分と他者を隔てるものが本質的にはない、という考え方です。祈りを捧げるとき、私たちは自分のエゴを一時的に手放し、神仏や自然界、あるいは救いを必要としている他者に意識を向けます。そこには「自分」という輪郭が薄れる瞬間があり、だからこそ深い感謝と慈悲心が生まれやすいのです。

掃除・清掃もまた、時間と労力を割いて場を整える行為です。自分中心の欲望や怠け心が強いと、掃除は「面倒な作業」にしか感じられないでしょう。しかし、ある種の祈りと同じように、「必要なことを淡々と行う」という姿勢にシフトすると、掃除を通じて“自分自身を明け渡す”感覚に至ることがあります。これは「自己犠牲」というより、「自分がしている行為を通じて、すべてが繋がっているのだ」という深い納得感に近いものです。


6. 「働きかけること」と「委ねること」のあわい

祈りは、人智を超えた大きな存在に身を委ね、謙虚に願いを捧げたり感謝を捧げたりする行為。一方、掃除は、自らの手を動かし、具体的に環境を整える行為。しかし実は、どちらも「働きかけ」と「委ねる」という二つの面を持っています。掃除は地道に手を動かしてこそ成果が出る“能動的”な行為ですが、終わったあとは「この空間をいまあるがままに保ち、自然に任せていく」という“受動的”な要素も含むでしょう。祈りは一見“受動的”な行為に見えながら、実は「祈ることで自らの意識や世界を変革させる」という“能動的”な力を秘めています。

山奥での生活は、自然に働きかけたくとも思い通りにならず、かといって委ねるだけでは生活が立ちゆかない、というせめぎ合いの連続です。その中で、掃除と祈りを繰り返すことは、「自分の身の回りと心を整えること」「自然や神仏の大いなるはからいに委ねること」の両方を体感的に学ぶことと言えます。

  • 掃除は自分自身の力を振り絞って環境や内面を整える行為

  • 祈りは大きな存在への畏敬と感謝を形にし、自己を明け渡す行為

この二つの間を揺れ動くように日々を過ごすことが、やがて「自然と自分は切り離せない存在である」ことを深く体に刻み込むのではないでしょうか。そこにこそ、掃除と祈りがもたらす本質的な“変容”と“気づき”があるのだと思います。


「掃除」と「祈り」。一見すると対極にある行為のようでいて、じつはどちらも“場”を整え“心”を鎮める営みであり、「自分を明け渡す」行為とも言えます。日常に埋もれがちな単純作業や儀礼的な行為を深めていくと、そこには私たちの存在そのものの真実が映し出される。それこそが、掃除と祈りに含まれる深遠な精神性であり、自然に抱かれて暮らすことの醍醐味でもあるのでしょう。
丁寧に床を磨いたり、補修しながら古民家で暮らすことの楽しみをこれからも考え続けていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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