見出し画像

学校の先生になりたかった

高校受験のときは、いつか死ぬのにどうして勉強するのか?なんて考えることは今よりずっと少なかった。

今、高校生になって、面談で必ず「目標とかないの?」と聞かれて、その度あーやっぱりそうだよなあ、なんて思う。
私には将来就きたい職業も目標もなにもないから、努力の目的が見いだせないからこの有り様なのだ。

思えば高校に入学してからも、それは憧れの職業だった。
教員。
私は特に中学校の教員になりたかった。だから、大学では文学部か教育学部に行って、英語か国語の教員免許を取ろうと思っていた。
理由は色々あったんだと思う。最近ほとんど書いていない日記を見返すと、私はとにかく中学校の英語の先生に恋をしていた。
現在52歳?とかそのへんのおじさん先生。

もともと英語が大嫌いだった。英語の授業は小4のときに始まった気がする。とにかく嫌いだった。そして苦手だった。
私は外国に行く気はさらさらないし、日本に来るヤツが日本語を喋れるようになればいいだけなのに。何故私が英語なんかやらなきゃいけないのか。
私は英語だけ異常にできない小学生だった。
逆に、周りには英語だけ異常にできる人たちがいた。
その人達の共通点はたったひとつ、英会話に通っている。
それがズルかった。もう私とアイツらの差は大きすぎる。取り返せない。私だって英会話さえやっていれば英語ができたのに。
きっとそれが、人生で初めて「負け」を感じた瞬間だった。

だから私も英会話に行きたいと言った。なんとなく周りの人達より自分は賢いような気がしていたので、今ならまだ追い越せるかもしれないと思ったのだ。
当時は水泳を習わせてもらっていた。
水泳をやめたら英会話に通わせてあげると言われたので、ウキウキで水泳をやめた。「やりたいことができたので」と言ってやめた。水泳はとても楽しかったが、それ以上に英語を取り返したいという思いのほうが強かった。

しかし、私が英会話に通う日はやってこなかった。
「高いから」親はその一点張りだった。

だから英語は嫌いだ。初めて寝た授業も英語だ。

そんなこんなで中学校に上がると、英語の授業はアルファベットの書き方から始まった。
A〜Zを書くテストの次は、a〜z。これができない人が結構いた。
これならやり直せるかもしれない、そう思って真剣に授業を受けた。

いや、理由はそれだけじゃない。
英語の先生が、とにかく可愛かったのだ!
20代後半くらいの女の先生で、その人がとにかく可愛くて魅力的だった。
私はその先生に質問をしにいくために英語を勉強したし、褒めてもらうために英語を勉強した。
英語の成績は見違えるものになった。英語で私より高得点を取るのは、小4から3つの塾に通い中学受験に落ちたWくんと、塾と英会話に通うIくんだけだけになった。それが中1のときの話。
当時の私が好きだったのは英語ではなく、あくまでも先生だった。

中2になり、英語の教科担任が変わった。
1個下の学年主任のおじさんだ。
3クラスあるうち私は2組で、2組だけ例の可愛い女の先生ではなかった。
堅そうな人だし授業は難しいし最初の1ヶ月くらいは絶望の日々だった。

しかし、徐々にそのおじさんの実態が見えてきた。
このおじさん、雑談ばかり。でも、授業はめちゃくちゃわかりやすい。
プリントも可愛い先生のものではなくおじさんのオリジナルだった。
教科担任が違う場合、クラス間の格差に繋がらないようできるだけ同じ授業をするものだと思っていたから驚きだった。
おじさんオリジナルプリントは、可愛い先生作問の定期テストでも全く不利にならなかった。むしろわかりやすかった。

私は可愛い先生と話すために英語の教科係になっていたので、授業のたびにおじさんに次の授業で必要な教材を聞きに行った。
「毎回同じだからわざわざ聞きに来なくてもいいのに。」そう言われたこともあったが、私はおじさんと喋りたかったのだから仕方ない。

その頃私は担任から不遇な扱いを受けていた。
不登校になりかけの友人がいて(苦手な人だったが)、来る者拒まず去る者追わずがモットーの私はそこそこに親しくしていた。
平日の真っ昼間に、買い物に来たとか海に来たとかラインしてくるような女だった。そして深夜まで通知の嵐。
その若い担任の口癖は「自主性を尊重します」だった。
掃除当番が黒板を消さないのも、給食当番が全く仕事をしないのも、誰もゴミ捨てに行かないのも全て自主性らしかった。
生徒会長だった私は、その全てを請け負った。担任は何も言わなかった。

ある日、不登校なりかけの友人が黒板を消していると、担任が怒った。
他の当番の人は何してるんですか。
ちゃんと仕事してください。

そのとき私はひどくショックを受けた。
思い出すのも憚られるような数多の感情。
でも一番は悲しみだった。

そのことをおじさん先生に話した。おじさんは私の頭を撫でてくれた。
なんて言われたんだっけ。日記を遡れば絶対にわかるけど、あんまり思い出したくない。あまりにも好きだったから。その愛の重さに自分でも引いてしまうから。
ただひとつ思い出したのは、それが定期テスト前の金曜日の出来事で、「今はとにかくテストで満点を取ることだけ考えな」みたいなことを言われたということ。今までの定期テストでの最高点は96点。注意散漫な自分にとって凡ミスをしないというのが一番難しいので、満点なんて取れるわけないだろうと思っていた。

その1週間後、返ってきたテストは100点だった。

そこから私とおじさんは急速に親しくなっていった。放課後に話すようになった。その口実はいつも質問だった。
大好きだった。感謝していた。尊敬していた。
お金が無いと言われ諦めていたものを、おじさんは私に無償で与えてくれたのだ。
おじさんはいつまで経っても知らなかった。英語の授業が無い火曜日の憂鬱さを。

なんやかんやで1年が過ぎ、私は中3になった。その頃の私が好きだったのは、おじさんと、英語だった。
おじさんには英語の楽しさを色々と教えてもらった。英語が話せると、全く違う文化圏の人と話せるようになる。そこで初めて、自分が見ていた世界の矮小さに気がつくのだという。

おじさんから聞いた話の中で、特に印象に残っている話がある。

フランス人は、蝶と蛾を区別できない。なぜなら、フランス語では蝶も蛾も「パピヨン」だから。

これは英語の話ではないが、私の言葉との向き合い方を大きく変えた。
言葉によって、見えかたが変わる。人間は、名前があるものしか認識できないのだ。

だが同時に言葉は世界を狭めてしまうものでもあると私は思う。
感情には名前がついている。「嬉しい」とか「悲しい」とか。
でも私たちの喜びは「喜び」と名付けられているだけで、本当は数え切れないほどの感情を抱いている。何故数え切れないのかというと、名前が無いから。名前がないものは数えられない。それがもどかしい。これをあなたに伝えるのだって言葉が必要。でも私が見ているこの世界をあなたに伝えるには言葉が少なすぎる。
私は今、小説家になりたい。文字を通して、人間が認識できるものを増やしたい。
でも、認識できなくても良いものもあるよななんて思う。私が「嫉妬」という言葉を知るまで、私は嫉妬したことがなかった。なぜなら嫉妬を知らなかったから。知らないままでいれば、私は嫉妬に苦しめられることもなかった。
でもでも、よくわからない感情に「嫉妬」という名前があることで安心もできる。「嫉妬」としか捉えられなくなるのと引き換えに、私は安心と納得を得た。これはどの言葉にも言えることだが。

だいぶ話が逸れてしまった。とにかく私がこういう文章を書くようになったきっかけは、たぶんおじさん先生だ。

中3でまた教科担任が変わった。最初から最後まで苦手な、おばさん先生だった。苦い思い出なのであまり多くは書かないが、でもそのおばさん先生からも愛を受け取った。ただただ合わないだけだった。

中3では全クラスおばさん先生が担当したので、おじさん先生は学年すらも全く関係ない先生になった。
でも教科担任だった頃よりも親しくしてくれたと思う。
放課後に何度も話してくれた。受験校の相談とか、英検の筆記、面接の対策とか重要なことはなんでもおじさんに話した。

一番長く話したのは卒業式の前々日。私がお母さんに言ってはいけないことを言ってしまった次の日だった。

「生んでほしくなかった。」
そう言った。
怒られたというよりは、がっかりされた。
「〇〇高校(都道府県内トップ)を受験するようになるまで育ててあげたのに。塾の送り迎えもしてあげたのに。恩を仇で返された気分だわ。」
よく覚えている。

それを恩だと思っている時点で、やっぱり生んでほしくなかった。
自分で親になることを選択するのだから、子育てするのなんて当然くらいに思っていてほしかった。高校受験をすることも当たり前なのに恩なのかあ。

トップ校を受験するほどになったのも、結局受かったのも半分以上は自分の努力だと今でも思っている。だって周りは大卒の子で、小学生のときから塾に通っているから。
私は高卒の子で半年の通塾で済んだというのに、それを親のおかげなんて思われたら困る。こっちもがっかりした。

こんなこと必死に書いているということは、少しは親のおかげだと思っているんだろうけど。

このことをおじさんに言った。めちゃくちゃ泣いた。
死にたいとか言った。
おじさんは叱りも慰めもしなかった。ただただ私の話を聞いていた。

そしておじさんは口を開いた。
おじさんは10年前、心臓の病気になったこと。遺書も書いたこと。
5年生存率は10%だったこと。でも生きていること。それはまだ生きたかったからだということ。
おじさんは生きたいから生きている、それだけだということ。

私はもっと泣いた。怖かったから、安心したから。
もしおじさんが死んでいたら、今の私はいなかった。
そんな不確定さが、怖くてたまらなかった。
おじさんと出会っていない人生だったら。この世におじさんがいたことも知らずに私は生きていた。

その10%は、きっと私のため。すっかり暗くなった帰り道、私はそんなことを思って、自分の傲慢さに呆れた。
でも、そんなもんなんだろうな、とも思った。
そんなわけないと思いつつも、運命を自分のものにする。誰かを自分のものにする。生きることは、愛することは傲慢になることなのかもしれない。

あんなに嫌いだった英語が、高校受験時には圧倒的な得意教科になっていた。それは数字としてハッキリ表れていた。都道府県内で7位にまでなった。
塾の先生には入塾時にもう英語はやらなくていいと言われており、その分を数学や理科に回していた。
勉強しないので、おじさんに質問しにいくことも減った。それでもおじさんは、廊下ですれ違うたびに話しかけてくれた。

私が生徒会長を退任する日、集会ではいつも寝ているおじさんが私の挨拶を聞いて拍手してくれたのが今でも忘れられない。

卒業式の日は、おじさんと写真を撮ってもらった。満面の笑みで。

私はおじさんみたいになりたくて、いつからか教員を志した。
公立中の教員なら、色んな生徒と出会えるから。私みたいな生徒を救いたいけど、私立中に私はいないし、英会話教室にも私はいないし、塾にも私はいない。公立中がよかった。

でも、おじさんと滅多に会わなくなって、おじさんの本質は教師ではないのかもしれないと思い始めた。
私がなりたいのは、おじさんみたいな教師ではなかった。

おじさんみたいな、誰かを救える人になりたいんだ。
なんとなくそんなことを考えているうちに、私の教員への思いはなくなっていった。

高校受験のときはあんなに、良い高校に行って良質な環境で良い教師になれるようにするんだ!とか意気込んでいたのに。
でもその熱量がなければきっとあんなに頑張れなかったから、それで大成功だったと思う。

さっきは小説家になりたいとは言ったけれど、それが日々のモチベーションに繋がりにくくて困っている。
でも今日こうしておじさん先生をはじめとしていろいろなことを考え直したから、なんとなくやる気が出てきたように感じ始めている。
次おじさんに会ったとき、胸を張って近況報告できるように努力したい。

冬休みに入って時間に余裕ができた。この3週間くらい、死ぬ気で頑張る。どうせいつか死ぬのだから、失敗しても大丈夫。そう思って生きる。

恩師のことをおじさんおじさん言って無礼者だとは思うが、おじさんの一人称がおじさんだったので許してほしい。

ここまで5062字、読んでいただきありがとうございました。






いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集