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孤独を愛するために、まずは静けさに身を委ねる。
静かすぎることに耐えられないと思った瞬間、人は孤独を感じるのだと想う。
日曜の午前中というのは、あまりに静かである。
小雨混じりのやや暖かな空気が、どこかそわそわする。
静けさが、見えない壁のように僕の周りを取り囲み、すこしずつ迫ってくるような感じがすると、ものすごく不安な気持ちになる。
孤独な彗星のようだ。宇宙はあまりにも静かである。
静けさとは、ないものだ。
ないものが、あるように感じる。そして、あるものよりも、あると感じる。
見えなければ見えないほど、そこに存在を大きく感じるようになって、容赦無く僕の心に滑り込んできるような感じがする。
静けさという見えないものに対して、不安とか、孤独とかそういったものを付随させて取り込んでいるのは紛れもなく僕自身なのだ。
花粉に黄砂やPM2.5がくっついて飛んでくるというのは、ものすごく嫌なのだけれど、僕にはどうしようもないことである。防衛するしかない。
だが、静けさというものに必要以上に、それも自分で、いろんなものをくっつけてしまってはいけない。悪しきものではないのかもしれない。
静けさというのは本来中立であるはずだ。
静けさと相性が良いのは、書くこと、そして読むことである。
手や目を動かしている間、僕は静寂を心地よいものとして受け入れることができる。
もちろん映画や音楽で静けさを埋めるというのも悪くない。
だが、気をつけないといけないのは、音がなくなった刹那、より濃密な影のような静けさがやってくるかもしれないということである。
静けさを愛するということは難しい。
その消えゆく音のように、自分自身が少しずつ薄くなっていくような感覚になっていく。そんな気がする。
それでも静けさというのは不意にやってくるもので、うれしいときもあれば、ものすごく寂しいときもある、うーん、一人でいると、どちらかというと、後者の方がほとんどである。喧騒を求めてしまう、無意味な喧騒。
害のない喧騒。知らない人の会話、そういうものに。
街にでることでより孤独を感じてしまうという人もいるだろう。
自分がどちらがより孤独を感じるかということを知っておくと良いのかもしれないなと思った。
静けさに孤独を感じるのか、はたまた喧騒との疎外感から孤独を感じるのか。
僕は、静けさをうまく享受できるようになりたい。
失われた静寂を求めて躍起になている人もいる。
人生とは、ないものねだり。
僕には、静けさが有り余っている。
仲良くなりたい。
静けさと仲良くなるということは、孤独ではなくなる、あるいは孤独であることを愛することができるようになることだ。
側から見ればそれは孤独なのかもしれないが、静けさと共にあるのだから、
きっとそれは、孤独ではない、なにか新たなものへと変貌するのだ。
目を瞑って深呼吸してみた。
そこに広がる静けさもいっしょに、すおんと取り込んでみることにした。
まずは自分から歩み寄ることが肝要なのである。
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