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なんだかあの人は辛い経験をしているらしいけど、とは言え、行動が理解できないよ

毒親やヤングケアラーという言葉がかなり市民権を得てきている今。
親から虐待されていた、すごく懲罰的だった、ネグレクト状態だった、そんな”発話された経験”を聞くことが多くなった気がする。



「とは言えさあ。なんでそんなどうでもいいことで悩んでいるの?なんでそんな失敗するの?なんで健康的な生活ができないの?なんで学ぶことが純粋に面白いと思わないの?」


過食・ギャンブル・薬物・セルフネグレクト・引きこもり・犯罪。
そこまでしちゃったらさあ。流石に辛い経験してたとはいえ、擁護できないよ。自己責任でしょ。

辛い経験をしたらしい人たちについて、不思議で理解できないことがいっぱい。



秀逸なひとたちからすると、そう見えているのではないか?

そう感じることがこの頃ある。


そんな人たちに届けば良いとかまでは思わないけど、久々にひらいた4年前の読書メモの要約のデキがよかったので、ネットの海の流しておこうと思います。


ベッセル・ウァン・デア・コーク=柴田裕之(2016)『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』紀伊國書店

 
 虐待などのトラウマは、些細なきっかけで身体に影響を及ぼす。虐待を想起させるような感覚やイメージによってトラウマは呼び起こされる。人間には自分の行動の司令を出す情動脳と理性脳という2つのものを持っている。情動脳は危険や快感を感知する原始的な部分で、理性脳は多種多様な選択肢を考えさせるようにプログラムされている。

 だが、トラウマを負うと、情動脳の動きが鈍くなる。人間は脅威を感じたときは身の回りの助けを求めたり、逃走したりすることを試みるが、それができないと、エネルギーの消耗を少なくしようと、抵抗をしなくなる。生き延びるためには、何が起こったか考えないようにし、恐怖とパニックを感じないように努める。その経験により、脅威から逃れる方法に異変が起きる。幼少期に虐待を受ければ、どう抵抗しても誰も助けてはもらえないことを学んでいるので、困難に直面したときも諦めるようになる。怒りを顕にして関係を悪化させるよりも、自分を憎んだほうが安全なので、自己嫌悪に陥るように脳がプログラムされる。

 そのような切羽つまった中で、どうにか自分が主導権を持っている感覚を得ようとするのに、薬物やアルコール、自傷行為、摂食障害に陥るようになる。人がマラソンやサウナに快感を覚えるようになるように、最初は不快感を覚えるものでも、恐れや嫌悪は喜びに変化していく。このような長期的な健康への危険の多くは短期的にはその人にとって防衛反応としての有益な役割を負っていることがある。しかし、医療機関ではしばしばそのような表面的な破壊行動を抑え込むことだけに注力し、背景にあるトラウマに目を向けてこなかった。

 トラウマの症状から回復するためには、脅威はもう過ぎ去った過去のことだと認識し、現在を生きている感覚を呼び起こすことである。そのためには、

①安心安全でいられる社会コミュニティをつくること、
②自身の体験を整理することができること、
③身体が自分自身で動かせる感覚を呼び起こすこと

などが必要である。自分のことを愛おしくおもってくれ、体の芯から安全だと感じられる人間関係は、過去の無力感をも癒やすことができる。また、自身の体験を話すことは、厖大なエネルギーが必要で、ときに羞恥心にも襲われる可能性もあるが、現在に戻れる感覚を保ちながら、少しずつ整理していくことで、自分が可愛そうな立場であったことを認識できる。そして、自己理解ができるようになると、自分の感情に敏感になる内受容性感覚が高まり、自分の体・人生に主体性を感じられるようになる。この自己認識が、情動脳の動きを正常に戻し、トラウマからの回復を助ける。

いまいちど、読み返してみよう。

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