「祝う」の意味
これまで5年間、100組の新郎新婦の方の節目を祝ってきた。
その意味を知ってたつもりだった。
でも最近、「祝う」ことのもっと深い意味を知った。
言葉にならない震えがあった。
誕生日とか
米寿とか
収穫祭とか
終戦記念日とか
何かの節目を記念する日。
「良かったね」と何かを祝う日がある理由。
人がそうやって記念日を作る理由。
それは、
失ってから大事だったと気づかないようにするため。
それが当たり前じゃないんだということを忘れないため。
伝えられなくなってからじゃ遅い。
失ってからじゃ遅い。
でも、日常の中でただただいつも通りにいるだけじゃ、
大切な人が元気に生きていること、
年を重ねられること、
美味しいご飯に困らないこと、
命を奪うものが空から落ちてこないことが、
当たり前じゃないとは気づかない。
その尊い当たり前が当たり前じゃなくて、
有難くて大切なものなんだと気づき直すために「祝う」がある。
私は、105組の家族の「祝う」を見てきた。
そこで見た笑顔も涙もきっと、
「大切なんだ」と知ったときに出たものなんだな。
「祝う」という文化を作った人間の心は、
やっぱり元々美しいものなんだと思う。
経済とか会社とかサービスとかなんでも、
「誰かのために」と思って始まった優しいもので、
元来溢れているものなんだなと思う。
性善説すぎるのかな。
祝い事がたくさんある人間として、
生きていることをなんだか誇りに思ってしまう。