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明治にキャンセルされた男色文化

江戸時代の江戸には遊女だけでなく「陰間」と言われる男娼が存在していた。春画の中にはたまに男性どうしで交わっているものがあり、それは恐らく陰間だと思われる。陰間と遊ぶのは非常に高額で、陰間を買うのは裕福な武士や僧侶が多かったとされるが、中には女性や夫婦で買う例もあったらしい。歴史的に性に寛容だった日本において、男色は女色とほぼほぼ共存していたと言ってもいい。

織田信長でも徳川家康でも男色家であったことはよく知られている。戦場に女性は連れていけないから、武士は仕えている小姓を性の相手とし、それは肉体的な繋がりのみならずと精神的な結びつきを強くする衆道(しゅどう)へと発展していった。江戸時代の江戸は男女の人口比が男性が女性の倍で、自ずと男色に向かいやすい背景ももちろんあった。

陰間は歌舞伎役者が芝居の傍らやっていたもので、当時の歌舞伎はほぼ客との売春を兼ねたものだったと言われている。当時は舞台の上演前に役者が客をもてなす茶屋が併設してあり、舞台に出ない「陰の間」であることから陰間茶屋(または子供茶屋)と呼ばれた。そこで18歳くらいまでの少年役者が茶屋のもてなしの一つとして、パトロンとなる上顧客に対し男色を行っていたらしい。それを発祥として発展し、役者でなくても専業の男娼を斡旋するのも陰間茶屋と呼ばれるようになり、そこに所属する男娼は「陰間」とか「野郎」といった呼ばれ方をした。

ただ、役者も兼ねていた陰間は元服前でも規則として月代を剃らねばならず、陰間は剃った月代を隠すために頭巾や野郎帽子などを頭頂部に被せていた。当時は少年の前髪というのが若さと美の象徴で、井原西鶴なども前髪さえあれば陰間は女よりも美しいと言ったという。陰間は客の求めに応じるため美や性技や芸事の修練を怠ることがなく、無駄毛処理をしたりザクロの粉で体を磨いて肌を綺麗にしたり、体臭や屁の元になる食品を食べないなど徹底したプロ意識だったが、20歳も過ぎると若さに陰りが見えて引退していき、普通に世帯を持つ「男」に戻っていった。

陰間は今で言えばアイドルのような存在でもあり、「会いに行けるアイドル」以上の事ができるアイドルがすでに江戸時代の文化の中にあった。同性愛とか男性が美を求めるというのも昨今の風潮のように見られがちだが、それもすでに江戸時代にその原型があった。そしてその時代はそれが普通のことで多くの人がその文化を普通に楽しんでいた。ところが天保の改革以降は徐々に衰退し、明治期になると性に不寛容な西欧のキリスト教的価値が支配的になり、陰間は完全に消滅した。

昨日まで日本が本来持っていた文化は西欧キリスト教基準で「野蛮」とされ、同性愛者は掌返しで異端視され、「生まれてこなければ良かった」と、その後の社会では苦難の道を歩むことになる。

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