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今年、丁寧に生きたいあなたへ
年末に会った友達に2025年の抱負を尋ねたら、「丁寧に暮らしたい」と言っていた。私の中でその子はすでに丁寧を絵にかいたような人間だったので、その道のプロほど謙虚だ…と思った。
私も丁寧に暮らしたい気持ちはある。
ただ、つい焦りがちで、せかせか、イライラしてしまうときもある。
あるいは、無感情に目の前のことをこなす、みたいな状態になることもある。(大変なことはまだしも、楽しい時間もさえも。)
もともとそんなにキャパが大きくないので、それが私なりの全力だったりもするのだが、最善かと聞かれたら自信がない。
どうしたら、私たちは「丁寧」に生きられるんだろう?
「ちゃんとしていたい」という真面目なその友達には
「丁寧ってちゃんとすることじゃなくて、自分が心地いい状態かどうかだと思うよ」と伝えた。
ホントにあれでよかったんかな~とほんのり疑問を持ちつつ過ごした年末。
自分的にはしっくりなんだけど、どうも私は大御所に「あなたの考えは正しいよ」と補強してもらいたがるきらいがある。
昨日読み終わった本と、書類整理をしていて開いた手帳のページに書かれていた読書メモから、丁寧に生きることを、掘り下げてみようと思う。
本というのは、ミヒャエル・エンデ作 モモ である。
よく内容紹介されているから、読んだことなくても内容や名言だけ知っている人も多いのではなかろうか。(私も昨日までその一人だった)
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この物語(あながちフィクションにも思えない)では、
ただそこにいるだけで、一緒にいる人の想像力を引き出す能力をもった女の子「モモ」と
その友達(道路掃除夫ベッポ、観光ガイドのジジ、こどもたち、まちのひと)人間から時間をぬすむ「灰色の男たち」
時間の源をつかさどるおじいさん「マイスター・ホラ」とカメが登場する。
ここからは、この本から学んだ、
①時間とはなんなのか。
②どのように人は時間を失うのか。
③時間がたっぷりあるとはどういうことなのか。(あるとない、の違い)
について私なりの解釈を混入させつつ書いていく。
①時間とはなんなのか。
時間とは、すなわち生活なのです。生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
今・過去・現在といろんな呼び名をもつ時間は、客観的なものではなく主観的なもの。1時間は60分というのは一定だが、それがその人にとってどんな意味があるかは定まっていない。生活が単一なものじゃないように。
②どのように人は時間を失うのか。
作中では「灰色の男たち」による巧みな話術によって
「時間貯蓄銀行に自分の時間を預ける」と同意すると、時間倹約家になってしまう。つまり、せかせか、いらいらして、時間を切り詰めて忙しくしている人になる。しかも厄介なことに、契約が済むと、契約した人はその記憶を忘れてしまう。彼らは自分の意思と思い付きで時間と節約しはじめたと思い込むのである。
現代で「時間がない」のは誰のせいなんだろうか。
モモの住む円形劇場跡に遊びに来た子供のセリフに、考えさせられた。
「だってうちのパパやママは言うんだよ。ここの人たちはまったくのぐうたらで、なまけものだって。神さまから時間をぬすんでいるんだ、だからひまがたっぷりあるんだって。そして、君たちみたいな人がおおすぎるから、ほかの人たちはますます時間が少なくなってしまうんだって。」
円形劇場跡に集まった人や子どもの営み、つまり遊んだり、物語をすることは「なまけもの」なのだろうか?
この考えは一見もっともらしくて、今の社会のなかでも聞こえてきそうな意見だと思う。(わたしがぐうたらで怠け者のために、こういう批判が被害妄想的に聞こえてる可能性もある。)
ゆっくり過ごすことは、他者の時間を奪うのだろうか?
さっきの前提「時間は心の中にあるもの」に立ち返るなら、
心の中にあるものを奪うことは他人にはできないはずだ。
ということは、自分の時間を失うのは、自分によってだけなのだ。
誰かに奪わせることも、奪われることもできない。
③時間がたっぷりあるとはどういうことなのか。(あるとない、の違い)
時間がたっぷりあるときの描写は、こうだ。(ネタバレになったらごめんよ)
せかせかした気分が消えて、(中略) 安堵と希望が胸いっぱいに…
時間があるって、何時間何分の自由時間をもっているかじゃなくて心と意思、つまり捉え方によるところが大きいようだ。
落ち着いた安堵と希望に満ちた心の状態を、時間がたっぷりあるといい、
せかせかして、不安で絶望的な心の状態を、時間がないといってもいい。
(お金に関しても言えそう。)
この、安堵と希望をいう言葉を見て、私が日々切に求めている心の状態はまさにこれだ、と思った。
じゃあ、どうしたらそんな状態になれるのよ?という話。
ここは道路掃除夫ベッポが心得を伝えている。有名な部分だ。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
目の前のことに集中しなさいとベッポは言う。
つまりマインドフルにやろうってこと。
マインドフルに生きることについては書家の武田双雲さんが「丁寧道」という本で1冊まるまる使って解説してくれているので、それを紹介したい。
ティク・ナット・ハンもマインドフルに生活することについて説いているけれど、私はこの双雲さんの高尚感のない、ゆるくて現代的な、それでいて子どもっぽい語り口がすきなので語る。モモの聖っぽい雰囲気と、いいバランスがとれると思っている。
本は手元にないので、メモを見つつキーワードを書いていく。
丁寧に生きることの効果と具体的な方法
丁寧道とは、気の向いた瞬間に「対象を丁寧に感じつくす」こと。
五感でフルに味わっていくことで、世界との一体感が感じられ、その快感やよろこびから自然に感謝が湧き上がってくる。
幸運な人の共通点は感謝といわれるが、
感謝はすることにフォーカスされがちだが、感じること=ご機嫌でいることが大切らしい。
丁寧道=マインドフルネス+マインドセット
→いまに心を置くと決め、リラックスしつつ雑念のないゾーン状態。
対象はなんでもいい。
普段自分がやっていることから、丁寧にやってみる。
短期的にハイになることより、静かなるわくわくを楽しんでみる。
丁寧は遅いことじゃない。
なぜなら、負のノイズが少なくなることで、スピードや成果も自然についてくるから。ひとつひとつやると結果的に早く終わる。
だからこそ、あえてゆっくりを意識するのだ。2倍の時間をかけるイメージをしてみたらいい。(モモに出てくるマイスター・ホラのカメも「オソイホド ハヤイ」と言っているしね)
短期回収を目指さないこと。コツコツがいちばん強いから。
結果を急ぐものの最たるものが泥棒であり、短期で欲しい!という焦りから奪っている。結果、つかまったり信用を失う。
見返りを求めないお手本が、こどもの遊びのエネルギーである。あれが最強。
いまの自分でできないなら、〇〇さんになりきってやってみるといい。演じてみる。自分なんて無・空。それくらい不安定な存在なので、認知の差で何者にもなれる。
義務に感じたら苦痛になるから、一度やめてみる。
しなくちゃリストを洗い出し、書き出してみる。
それってホントに必要?って自分に聞いてみる。
不安定な時ほど丁寧に。目の前のことに集中。
例:ドライヤー理論
なかなか乾かないなと思ってると長い。
ドライヤーかけるのってきもちいい、と思っているとすぐ乾く。
まとめると、丁寧は心=意識の状態。
あえてゆっくり、味わいながら。
義務を減らして、ごっこ遊びのように。
目の前の、それ自体に浸る感じ。
丁寧にしなきゃって肩に力を入れるより
ていねいぐらしごっこ、くらいでいいんだろう。
そんなわけで、今日はねむいので明日からていねいごっこをしてみたいと思います。おやすみなさい。