町田そのこさん『星を掬う』傷ついた女性たちが再び人生を取り戻す物語
本日は、町田そのこさんの『星を掬う』をご紹介します。
2021年本屋大賞受賞後の第一作としても、注目を集めている小説です。
母が子どもを捨てるということ。毒親としての母と娘の関係。夫のDV問題。女性の権利。
出産するということ、育てること。さらには、親の介護の問題まで。
家族問題や女性がこの社会で生きる苦しみが、幾重にも織りなされて展開していく物語でした。
読み進めるのが辛い場面もありましたが、大変深く考えさせられました。
苦しくても救いはあるはずだと、最後まで希望を持って読み進めました。
読書の秋に、重厚な長編小説はいかがでしょうか。
母親に捨てられた娘、そして再会
幼い頃に母親に捨てられた過去を持つ、千鶴。
母との美しい思い出だけが生きるよすがでしたが、一方で慕っていた母親に捨てられたという現実は大人になってからも暗い影を落とし続けています。
千鶴は結婚に家族の愛情を求めましたが、結局は結婚生活も破綻して離婚。
それでも元夫からの執拗なストーカー行為と、激しい暴力は止むことはなく、精神的にも肉体的にも限界ぎりぎりまで追い詰められていきました。
お金に困窮した千鶴は、生活のため、ラジオ番組に母との思い出を書いて応募。入賞して賞金を得ます。
そして、ラジオを聴いた千鶴の母親の知人である恵真という女性が、ディレクターの野瀬に連絡をしてきて、物語は大きく動きます。
恵真が千鶴と母親を再会させるのですが、やっと再会した母親は若年性認知症だったのです。
母親の千鶴は「さざめきハイツ」という古い建物に、事情を抱えた女性たちと共同で暮らしていました。
千鶴は元夫から逃れ、母親の聖子と、聖子を「ママ」と慕う若く美しい恵真と、家事を担当している彩子と一緒に住むことになります。
千鶴は母親を、受け入れられるのでしょうか。
親子としての絆を、再び取り戻すことができるのでしょうか。
一緒に住む女性たちの辛い過去も、徐々に明らかになっていきます。
寄り添い合って暮らしながらも、やがて衝突し合う彼女たちに、心が揺さぶられていきました。
産めば「母性」は目覚めるのか?という問い
この本を読んでいて考えていたのは、女性は子どもを出産すれば、自然に「母性」というものが目覚めるのか?という問いです。
母親なら、自分が産んだ子どもを愛せるはずだ。
この言葉は、産後の女性にとてつもない大きなプレッシャーになることもあるのではないでしょうか。
読んでいくうちに明らかになるのですが、千鶴の母である聖子もまた、自分の母親からの精神的支配に苦しみ、無意識のうちに母親が求める女性になりきっていました。
母と娘の濃く親密すぎる繋がりは、いわゆる「洗脳」に近いのかもしれません。
しかし、聖子が自分の母親に期待された「母親」像と、本当の自分の間には、とてつもない隔たりがあることに気づいてしまったのですね。
さらに、母親になれば、常に利他を求められます。
夫にも、子どもにも、社会に対しても。
そのうち、一個人としてのアイデンティティすら失われていく。
聖子は、本当の自分に覚醒し、「結婚」という一種の社会システムから逃亡したのかもしれません。
母性の目覚めは、女性のこれまでの人生の消滅を暗に求められているように感じることもあります。
だとしたら、それは、とても怖い。
もちろん、千鶴の母親の聖子のしたことは正当化できるものではありませんし、千鶴が幸せにならなかったのも事実です。
モヤモヤ感じる自分の心の動きを丁寧に見つめていくことが、読書という行いなのかなと感じます。
小説を読むということの意味
「家族」の問題は、外側からはその苦しみをわかってもらえないブラックボックスのようでもあります。
家族が抱える苦しみとは、この小説では、家庭内の暴力、毒親との関係、育児の重圧になるでしょう。
聖子は自分自身の母親から支配されてきた苦しみが、さらに連鎖のように娘に及ぶことを避けようと逃げたのかもしれません。
それならば、千鶴の母親はどうしたらよかったのでしょうか?
小説には答えがないと言う人もいるでしょう。
答えは、読者自身が自分の中に探していくものです。
小説を読む意味とは、そういうことなのではないでしょうか。
人生には、すぐに答えがでるものばかりではありません。
答えの出ぬまま、ずっと自分自身に問い続けていくのも、読書の醍醐味でもあるのです。
女性たちよ、自分の人生を生きよう!
最後に。
千鶴の言葉に溜飲が下がる思いがしたので、引用させて頂きます。
「わたしの人生は、わたしのものだ!」
自分の人生を放棄してはいないか?
私も、きっとこの言葉を胸に刻んでいくでしょう。
失われていく母親の記憶の中で、星のようにきらめいていた記憶は何だったのか?
最後は、泣けます!