皆上さん、おこるおこる
あの皆上さんが、僕らの前でこんなにも怒りを露にするなんて、まったくもって信じられないことだった。
僕と彼女との付き合いは二年くらいになる。
それまで声を荒げるどころか、悪口一つ聞いたことすらない。
育ちも良い(京都嵐山の老舗旅館の一人娘)。もちろん礼儀作法やなんかも幼い頃から厳しく躾けられている。
性格も慎ましい。竹林みたいに穏やかだ。
誰に話しかけられても、聞いてるこちらがハラハラするくらい対応が丁寧である。
事件が起こったのは、学園祭の出し物である演劇の稽古をしていたときだった。
一番の盛り上がりどころで、楽しみにしていたこともあって、演じる仲間たちも生き生きしていた。
僕ら裏方や、いつもピリついている先輩の演出や監督なども、比較的楽しんで見ているようだった。
そのせいかアイデアも多く出た。
じゃあ前半部分も少し現代風に手をくわえようなどと、稽古はいつにない盛り上がりを見せていた。
「なあ、お前はよぉ!」
舞台袖にいた僕の後ろから、突然そんな声が聞こえた。
酔っぱらいが叫んだみたいだ。
はじめ僕は、そこにいた演出がまた誰かに絡んでいるのではないかと思った。
よくあることだったから。
いずれにせよ、その声はいつにも増して大きい。
いきなり耳を引っ張られて叫ばれたみたいだ。
個人個人に訴えかけるものがある。才能のある歌手が聴衆の心をつかむみたいに。
舞台の演者たちの動きが止まる。
僕ら裏方も振り返ってそちらを見る。
結果として誰かが怒られていたということは予想通りだった。
でも怒っていた人物があの皆上さんだったということに誰もが自分の目を疑った(はずだ)。
それになにより、あの声だ。
あんな身体の芯をギザギザにささくれ立たせるような声があるだろうか。
そのとき僕らが目にしたものは、ボーダーのシャツをきた一年の男子と、それと向かい合う、白いワンピースをきた皆上さんの姿だった。
彼は背を丸めてうつむいている。
皆上さんはといえは、いつもと様子が変だ。
顔を斜めにしてにらむ猫のよう。
くどいようだがそれを見ても、僕はあんな声を皆上さんが出したとは思っていなかった。
だからもしこれ以上何も起こらなかったら、なんか今、変わった声がしたなくらいのことでやり過ごされていただろう。
「おまえは何だってよりにもよって私のぁぁぁぁ!!」
そうはならなかった。
彼女がまた叫ぶ。
そうしてからちょっとここでは書けないようなことを、ものすごい早口で並べ立てた。
それを聞いて僕は、様々な方向から何百人もの人たちが、自分の欠点を並べ立てて去っていったような、そんな気分になった。
全員、身動き一つ出来なかった。
まるで目の前で人が襲われているのを見ているような感じだった。
不用意な行動を取れば次の標的が自分になってしまう。
皆上さんはおもむろに履いていた右足のスリッパを手に持つ。
それを目の前のボーダーの男に投げつけた。
それもいわゆる女投げというのではなくて、ピッチャーのような華麗なフォームで!
高速で至近距離から放たれたスリッパのつま先は実にうまいこと彼の額に突き刺さった。
皆上さんは俯いてへたり込む彼のすぐ前まで歩いていく。
「立て」という声が聞こえたような気がした。
ボーダー君がのそっと立ち上がりかけた瞬間、物凄いビンタが彼の顔を横殴りに襲った。
彼女は素足のまま、僕らには何も言わずに去って行った。
ボーダー君が後に語るが、始まりはとても些細な勘違いだった。
僕らは、彼女がなぜそんな凶行に及んだのか、その真相を知ったとき震え上がった。
あれだけ奔放に周囲にいかりを撒き散らしていた監督と演出は、その日以来彼女が姿を見せると大人しくなってしまうほどだった。
本当に些細なことだ。
ボーダー君の足がカエルの卵みたいな大変な水虫におかされていることで有名だったことが、今回の悲劇に大きく起因している。
あの瞬間、どういうわけか彼女は、自分のスリッパを彼がはき、彼のを自分が履いていると思ったみたいなのだ。
二年生の彼女と一年の彼のスリッパの色は違う。
多分去年の自分の色と勘違いしたのではないか。
一瞬の勘違いが彼女の中でさらなる勘違いを呼んでしまうようなことだったのだと思う。
彼の足に対するショックもあったのだろう。
再び僕らの前に現れた彼女は、何事もなくおしとやかな皆上さんに戻っていた。
それからそっとボーダー君に近づいて、自分の勘違いを丁寧に謝った。
その後二人は付き合うことになった。