あの子の日記 「泡沫」
日本のどこかの、誰かの1日を切り取った短篇日記集
分厚いガラスに囲まれた水の中で生涯を過ごす魚たち。
平日昼間の水族館には、数組の親子と学生グループと自分たちみたいな若いカップルがいるだけだった。黄やオレンジの熱帯魚が泳ぐ水槽を彼女と二人で眺めているけれど、近くを通る人はあまりいない。
「ねえ見て、きれい」
群れになって泳ぐ小ぶりな魚を指さしながら、隣でしゃがむ彼女がそう言った。体に三本の黒線が入った縦じま模様の魚たちが、サンゴと僕たちの間を横切っていく。
「へえ。俺はあっちの水槽の青っぽいやつのほうが好きだな。このあいだ観に行った海の大冒険みたいな映画にも出てたし」
「何だっけ。もしかしてドリーのこと?なんだか懐かしいこと言うねえ。確かにあの子たちも良い色してるわ」
「そう、それだ。まあ大して懐かしいってほど昔の話ではないと思うけど」
彼女は立ち上がって青い体の魚が泳いでいる別の水槽に目を向けた。あまり魅力的ではなかったのか、すぐにお気に入りの縦じま模様の魚に視線を戻した。
「この水槽、飽きないね。いつまでも眺めていられる。時間が経つのなんて忘れちゃいそう」
買ったばかりの腕時計の針はちょうど13時を示している。水族館へ到着してからあまり時間は経っていない。薄暗い照明のせいか、まだ腕に馴染んでいない黒色の革ベルトがいつもより艶っぽく見える。
「まだ15分くらいしか経ってないみたいだよ。せっかくだし、もう少しゆっくり見て行こうか」
例のお気に入りの魚たちはすいすいと水槽の端へ行ってしまったが、ほかの鮮やかな魚たちが絶えず目の前を行き来している。
「縞々のあの子たち戻ってきたよ。さっき小柄だった子、ちょっと大きくなってるね。いじめられてなくて良かった」
「うーん、そうか?大きくなるって言っても1分やそこらじゃ変わらないだろう」
とぼけたことを言う彼女の視線は相変わらず水槽のほうへ向けられていた。いつもよりふっくらした横顔は妙に安心感がある。付き合って半年も経っていないのに、何年も一緒に過ごしてきたかのような錯覚を起こしてしまう。
「ここにいたら、私たち、あっという間におじいちゃんおばあちゃんになっちゃいそうだね」
まるで母のように落ち着きのある声でそう呟いた彼女は、皺の深くなった笑顔でこちらを見た。こうして顔を見合わせている間にも、目に見える速さで老いていく。
「時間ってね、あなたが思っているよりもずっと早く過ぎてしまうものなの。何にも知らされないうちに、いつの間にか終わりがきてしまうの」
水槽でうまれた小さな水泡は、水面に顔を出してぱちんと消えた。