都市哲学もどき#4
こんにちは、だるまです。
都市を語る会vol.4に参加できなかったため、議事録を読ませていただき、考えを発散させることにしました。そういえばvol.3について書いていなかった。
さて、テーマは「街歩き」についてだったようです。
(まちあるき、街あるきなど色々ありますが、街歩きに統一します。)
街歩きはネットで十分?
議事録に、「Googleマップのストリートビューで街歩きは十分ではないのか?」という文言があった。
おもわず「へ?」と言ってしまった。それくらいびっくりした。
参加していないのでどんな文脈か分からないのだが、「Googleマップで十分なわけなかろう」と答えたかった。
街歩きが大好きだ。学科の街歩きできる部分を特に愛しているといっても過言ではない。
しかし、「Googleマップで十分なわけなかろう」の後がうまく続かなかった。
なぜ、街歩きは重要なのか?ストリートビューと街歩きの違いを説明できるのか?
ということで考えることにした。
街歩きは重要なのか?その1
立場はもちろん「重要である」だ。ここでは理由について考えてみる。
街歩きの存在を知ったのは、大学一年生の小論文を書く授業だった。東京について描写された文学を読んで論考を書くという内容で、川端康成や堀辰雄の文学、前田愛の都市論などを読んだ。今思えば社会学の端っこをつまみ食いしていたのだった。
その頃は都市を学ぶ道に進むとはつゆ知らず、毎週の授業と課題が憂鬱で仕方なかった。あれ、なんで今、都市をやっているのだろう。
ともかく、授業では文学の中の都市が語られ、作品に描かれた場所を歩いて追体験する意義を学んだりした。文字に埋め込まれた都市が、眼前に空間として出現することに楽しさを覚えた。
ここからひとつ、街歩きの重要性が言えると思う。
ストリートビューは平面である、画面である。
一方で街歩きは立体的な空間体験である。その空間に自分が落とし込まれ、観察できる。入ってくる情報が多く、それゆえ発見も多いだろう。
しかし、VRが発達したらこの優位性は失われてしまうかもしれない。
街歩きは重要なのか?その2
他にも考えてみる。
街歩きについて語っている本を引っ張り出して、先人の考えをパクる紹介する。
吉見俊哉の『東京裏返し』の「はじめに」は、街歩きについての論考だ。空間性に加えて時間性について述べている。
「都市は空間的存在であると同時に時間的存在である。」
異なる時間がレイヤとなり、積層している。その最新状態を私たちは歩いている。街歩きをすることで、重層する時間と、その切れ目を発見できるそうだ。
ストリートビューは毎年更新されるとしても、過去のある時点に過ぎない。しかも、車からの映像だ。移動するとヒュンヒュン飛んでしまって、見えないところにイライラしたりする。
自分の足で時間と時間の境目を見極めることが、街歩きの醍醐味なのではないだろうか。
とは言いつつ、ストリートビューにはお世話になっている
ストリートビューを攻撃してばかりでは、申し訳ない。非常にお世話になっている。
知らない街を見に行くとき、授業で取り上げられた世界の都市を見るとき、ストリートビューの威力を思い知らされる。
オンライン授業で街歩きができないとき、ストリートビューで自宅から色々なところへ行った。かなり酔うけれど、概形は掴める。
歩く前に見て、歩いて、また見てと使えば両方の良さを取り込める気がする。
それでも街歩きの良さを伝えたい
同じ学科内でも街歩きの楽しさを今ひとつ感じていない人がいることが分かって、勉強になった。
椅子に座って街を見て街歩きおわり、としていてはなんとなく勿体無い。別に事足りるならそれで良いので押し付けはしたくないが。
何も知らないで歩くのと、なにか街を読み解く鍵を見つけようと歩くのとでは、街に対する能動性が異なる(散歩は散歩で大好きだ)。
近日中に街歩きをする予定なので、楽しくできたらと思う。
取り急ぎ書いたが、「街歩き」についてはもっと考えられるし深めたい。
かしこ