「Be yourself~立命の記憶~Ⅱ」第8話
必然の遠回り
昨夜はカラオケの後、ホテルの前で固く握手をして、帰った。
翌朝。 バンコク滞在の2日目。 私は午前中に目が覚めたけれど、やっぱり頭はボーっとしたままだった。
ポーチを覗くと、両替をするのを忘れていたせいで、タイの現地通貨のバーツが無い。
両替できるところが開店するまで、ホテルの周りをちょこちょこと散歩してから、大通りに向かった。
朝9時を過ぎると、大通り沿いは、食べ物の屋台が並び始めていて、美味しい食べ物の匂いがあちこちでしていた。
私はというと、相変わらず全然食欲が無く、食べる気になれない。
とりあえず、銀行らしき建物に入り、とんでもなく美人の従業員ばかりの受付に圧倒されながら、書類の2カ所にサインをして1万円を両替した。3283バーツ。
こんな美人が私を騙すはずがない、と計算も確認もせずポーチにしまった。
日本の男性、タイに来たらお金持ち扱いされるだろうし、美人ばっかりだからモテたきゃタイに行けばいいのにね。
南国の空気感の中を、午前中ひたすら大通りを歩いて、歩き疲れたところで、オシャレなカフェで立ち止まった。
床が私の目線くらいの高さのテラス席には、黄色とオレンジの中間色のパラソルが5つほど並んでいる。その一つで、白人女性と男性がお茶をしている。 なんて、画になるお二人なの♪
左手の階段を登って、奥を見ると、アジアンテイストな四角いお席。ガラスのリビングテーブルが置かれていて、ラグジュアリーな4人がけの席。
ビルの中の店内カウンターでアイスコーヒーをオーダーして、テラス席に座った私は、ゆっくりアイスコーヒーを飲みながら、しばし考えた。
私、日々の忙しさにかまけて、最近、深く考える事忘れてたな・・・。
自分らしさも失っていたな・・・。疲れてたんだ私。
それをウチの主人は察していたんだ。 だから海外旅行に行かせてくれたんだ。私が海外が好きなのを知ってるから。 Konami さんに会いたいなって言った私が、本当に会いたそうな顔してたんだろうな。
それを見て、「会いたい友達に会ったら」「好きな海外に行ったら」私が元気になれると思ったんだろうな。
そう考えると、主人が、どんな気持ちなのか、理解できる。
・・・・ホント優しい人だな。
・・・あれ?よく考えたら理解出来るじゃん、私。人の気持ち。空気では理解できないけど、深く深く一生懸命時間をかけて考えたら、理解出来るじゃん。 他の人よりも何倍も遅いし、ヘタすると数年かかる事もあるけど。
主人は、思っている事がすぐ顔に出るタイプだ。付き合い始めの頃から、私の事を好きだって事も、顔を見ればすぐに分かった。今時珍しいくらい、真面目なタイプで、分かりやすい冗談しか言わない人だ。
だから、私、主人の事を好きになった。楽しくて、明るくて、優しくて、頼りになる。 どんなに辛い事があっても、この人とだったら乗り越えられると思って結婚したんだ。
私、やっぱり主人の事、愛してるな。
愛って、目に見えないから、忘れてたよ・・・。
人の気持ちって、目に見えるものが全てじゃないし、見えない気持ちが空気に混ざって、 世界中に溢れてるんだね。 世界中に、言葉に出来ない想いがある。
その事に気付いた時、現実にあるわけではないけれど、私の目の前に、パウダーのような粒子が舞っているような光景が広がった。
私、今まで目にみえるものしか信じてこなかった。騙されないように、傷つかないように。 私、バカだった。 やっとわかったよ。
もっと五感を研ぎ澄まして、見えないものを感じ取らないといけない事。
愛してるって言葉の奥に、もっと深い気持ちが潜んでいる事。
あぁ・・・、私、主人に愛されてるなぁ・・・。タイまで来てやっと分かったよ。
タイって不思議な国だね。 私、びっくりするくらいに五感が冴え渡って、全身の感覚が鋭くなっている。 とても感受性が豊かな、昔の自分に戻っている感じがする。 そして、昨日の彼のセリフが蘇る。
「そんなのあなたらしくないじゃない?あなた、『いつも元気なアイちゃん』だったでしょ?」
私、すっかり忘れていた。 本当の自分がどんな自分だったのかを。 ここにきて、私、やっと自分らしさを取り戻した事に気が付いた。 本当の私、元気な私が、今、ここに居るもの。 そして、やっと分かったよ。 私、子育てに疲れていたんだね。
理想の母親像に縛られて、無理な事を一生懸命やっていた。でもうまく出来なかった。
理想の家庭像を実現出来ずに、とりあえずお金があれば何とかなるかと、ひたすら働いて。でも、段々と何のために働いているのかも分からなくなって。
その内、仕事と家事と子育てだけの生活に疲れ果てて、何かをやる気力も体力も無くなって、自宅では横になるばかりだった。
自分の子供の泣き声に、いつもイライラしたり、悲しくなったり、悔しくなったりしていた。ママ友の前では、明るく振る舞っていたけど、私、家ではいつも子供に怒っていた。
自分の子供がかわいく思えない時もあった。それは母親失格だろう、と自分の事も嫌になった。
私、自分が嫌だった。 産後のダイエットを頑張れない事や、お金は使え無くもないのに、美容院やネイルサロンにマメに行く気力さえ無くて、ただ子どもたちの世話と家事と仕事をこなす事だけに追わ れて。
日頃の憂さを晴らすように、お昼にみんなにご馳走して美味しいものを食べて、夜はお酒を飲んで、また太っていく。
私、こんなはずじゃ無かったと思っていたんだ。でも、その現実に向き合わずに、目を反らし続けていた。
私、自分に自信が無くなっていたんだね。心から、子供達の事、可愛いと思えていなかった。
でも、今はもう、分かるよ。私、元気になったから。
人間って、自分を愛せた時に、初めて人を愛することが出来るんだ。 実際は、そこまで愛せなくてもいいのかも知れない。
ただ、自分が元気になれば、それだけで子供を愛する事は出来ると思った。 今は、子どもたちの事、本当に可愛いと思ってる。愛してる。いつか、彼のお母さんのように、魂のメッセージを送ってあげたい。 そう思ったんだ。
***
俺は、午前中、会社でコーヒーを入れながら昨夜の彼女のセリフを思い出した。
「あなたが好きです。」
あれ?高校の時と同じじゃねーの!?
彼女のほうから、好きだって言われて、今日一緒に出掛ける事になってるし! 俺達、20年前と同じ事、この2日で繰り返す事になるワケ?って事は、普通20年かかる事を、2日でするワケだから、イヤもう、今日の夜どうしよう!?
・・・・イヤイヤイヤイヤ、ちょっと待て。 冷静になれ、俺。
彼女は、エビが好きで、エビ釣りに行きたいって言ってるだけじゃねーか。 とにかくだな、今は、今日のデートっぽい事を楽しみたい!
だって、20年前出来なかったんだもんね! 俺、今日は、やっと着替えて行けますよ!オシャレになりましたよ、俺は!
そもそも、昨日から、まるで、過去にタイムスリップしたような気分だったんだ。
あの時、東京のホテルのロビーで、色んな事を誤魔化したのを、あの後、散々後悔した俺。
あれから俺達は、結局一度もちゃんと会えた事は無かった。
彼女と飯に行く事さえ出来なかった俺にとっては、37歳の今だから出来るデートだ。俺の記憶を書き換える絶好のチャンスなんだ。 あの頃に戻って、彼女とのデートをやり直したかった。今度こそ、イケてる俺が彼女とデートをしたかったんだ。
その先に何があるかとか、そんな事よりは、俺の嫌な思い出をなんとか消し去りたくて、 とにかく記憶を上書きしたかった。
彼女の中にあるであろう、俺に対するイメージを塗り替えたかったんだ。それは、俺の20年間がどれだけ俺を成長させたかどうかの証でもあるんだ。
こうして、俺は、彼女との20年ぶりのデートに浮かれつつ、昼前にカフェからホテルに着いたとメッセージをくれた彼女に電話をした。
「・・・飯どうする?」
「え、だってこれからエビ食べるでしょ。」
「いや・・、飯どうする?」
「いや、だからエビでしょ?」
そこは、『マックとか行く?』って言ってくれよ! そしたら、俺、『もっと良いとこあるから連れてくよ』って言うからさ。
「・・・・。」
「・・・・。」
言わねーか。分かんねーか。まぁ、いいや。
「俺、一旦家帰ってから着替えて行こうと思ってるからさ。ウチのほうまで歩いてこれない?」
「あー、歩ける距離なら大丈夫だと思うよ。遠い?」
「ちょうど、さっきのカフェから歩いたくらいの距離。反対方向に。俺も歩いていくから途中で会えると思う。」
「あ、分かった。じゃぁ大丈夫、歩けるよ。さっきと反対方向に行けばいいのね。」
「そうそう。じゃぁ、俺着替えてくるから。」
「・・・・。」
あれ?なんで黙るの?もっかい言うぞ?
「俺、着替えてくるから。」
「はい・・・。ぜひ。」
よし!任せとけ!待ってろよ。
「じゃぁ、後で。」
「うん、後でね。」
電話を切った俺は、会社を出て準備万端の家に向かった。
***
「そうそう。じゃぁ、俺着替えて来るから。」
・・・デートみたい。
「俺、着替えて来るから。」
2回言われてハッとした私は、こう答えた。
「はい・・・。ぜひ。」
「じゃぁ、後で」
「うん、後でね。」
そして、通話を切った、私。
あんなに、さっきまで家族の愛を感じていて、愛を誓ったばかりだったのに、ニノからの20年ぶりの電話の声に喜んで浮かれて、つい気持ちがタイムマシーンに乗ってしまった。
うん、これはデートですね。ほぼデートですね?20年経ってようやく初デートなワケですね、私達?
17歳で初めてキスして、37歳で初めてデートしてるって事は、普通の人が2日でする事に20年かかってるね。 って事は、仮に最後までしてしまうとしても、普通の人が1ヶ月だとして計算したら、私達の場合、・・・たぶん300年以上先!
よーし、大丈夫!ヘンな事にはならないですね、これ!
とにかく、本日は、何も考えずに楽しくエビを食べさせてくださーい。
よし、出かけよう!
私は、黒色のワンピース姿が少しでも明るくなるように、オレンジの花柄のストールを首からかけて、黒色の帽子をかぶり、ポーチをバッグにしまって肩にかけると、 急ぎ足でホテルの部屋を出た。
20年ぶりの初デート
私は、彼に言われたとおり、さっきの道を右側に曲がった。
曲がる前に横断歩道があったけど、タイの街中は相変わらず信号が無かった。苦手・・・。
私は、隣に居る女性2人組が渡るのを待っていたけど、ずっと喋っていて全然渡る気配がない。
私は、もういいやっ、っと、車の途切れた隙を狙って、1人で渡った。
よーし、出来るじゃん、出来るじゃん。 そんなに躊躇しなくたって、そこまで勇気を出さなくたって、いいんじゃん。
迷った時は、自分の気持ちに従えばいい。
私、何でも出来る気がした。
ショーウィンドウに映る自分を見ていると、歩道で、ちょっと太った2歳くらいの男の子が遊ぶように後ろ向きに歩いている。ウチの次男くらいかな?と微笑ましく見ていたら、ちょうど私とすれ違うとこで、足を引っ掛けたのか、尻もちをペタンとついた。
わーん!と泣いてしまって、あらあらと思ったんだけど、その姿が可愛すぎて、ニコニコしてしまった。前からママらしき女性が駆け寄って、通り過ぎた後も。後ろから子供の泣き声が聞こえていた。
あぁ、子供の泣き声がこんなに気にならなかったの、久しぶりだ。
いや、自分の子供以外の子供の泣き声だったらあまり気にしてはいなかったけれど。でも、子供の泣き声で、ついソワソワしてしまっていた前の私。
タイに来て、私、変わったな。 なんだか、とても、ニコニコしている。
すると、ちょっとカワイコぶりながら、ウキウキの気分で街を眺めながら歩いている私の目線の先に、白いシャツの中に黒の T シャツを覗かせて、白いストレッチパンツを履いた、オシャレな男性が居た。
***
大きく手を振った後、彼女が駆け寄ってきたので、俺は、向かい側からタクシーに乗ると説明して信号が変わるのを待った。
すると彼女が言った。
「もう、あなた、本当にカッコよくなったね!」
「あ、そう?」
と頭をかきながら素直に照れた俺。
道路を渡り終えると、足元を10cmくらい上げて見せながら、彼女が言った。
「私は、ベトナムでサンダル買ってきたの、カワイイでしょ?」
「うん。」
君が、ね、と、自然と笑顔になる俺。
いくつかの乗車拒否が当たり前のタクシーをやり過ごし、やっと捕まえたタクシーに乗ると、彼女が言った。
「そうだ、私、今朝、思い出したんだ」
「何を?」
「私、受験の時のホテルのロビーで、あなたに着替えておいでよって言ったんでしょう? 覚えてないけど。」
「言ったね。」
思い出したくないけどね。今日、そのイメージは払しょくしたけどね。
「それね、私、デート=おめかしして気合い入れるもの、っていう認識があるから、あなたにそう言っただけだと思う。」
「どういう事?」
「つまり、私はあなたとデートがしたくて、デート=着替えてするもの、って思ってるワケ。だから、軽い気持ちで冗談で言ったんだと思うよ。『あ、着替えてきちゃう?』みたいな意味で。」
え?そうなの?ただそんだけだったの?
「そうなの?」
「そう、だから誤解だったね。ごめんなさい。」
俺は、自然と肩の力が抜けて、脱力状態で上を見上げて言った。
「そうなのかよー。でも、何でマック?」
「高校生のデートって言ったら、マックでしょ・・・。」
「そういう事か・・・、なんだよー。」
なんだよ、彼女もデートしたかったんじゃん。俺、こんなダセー男はダメだって、完璧に振られたんだと思ってたよ。
「ハハハ・・・ごめんなさい・・・。」
「ま、でも今こうしてるからいいんじゃないの?」
「・・・そうだね。なんか、ホントはもっとオシャレしたかったんだけど、旅行だから出来なかったー。残念。」
「気にしないよ。」
あの頃のあなたと、俺、今、一緒に居るような気がしてるんだ。
自然と微笑みかけた。
***
初夏のように、心地良い暑さの中、郊外の自然に囲まれた住宅街の一角に、釣り堀はあった。
「えび」とひらがなで書いた看板に、釣りをしている少年のイラストが描かれていて、レトロでちょっと面白い。タイ語っぽい文字とローマ字でも EBI って書いてあった。
頭上に掲げてあるエビの釣り堀の看板を抜けると、左手には10人くらいが余裕で並べるような長さのカウンターがあって、その中に冷蔵庫が並んでいる。
周りは柱と屋根だけになっていて、雰囲気としては昔の日本のビヤホールのような、納涼祭のような感じ。
外よりも少し湿気が増えた暑さの中で、扇風機の音だけが響いている。何か虫が鳴く声も聴こえた。鹿児島の山奥にあるそうめん流し屋さんのような、日本の夏と変わらない印象。
竹で編んだ、背もたれ付きの四角い椅子としっかりした造りのテーブルがぐるっと周りを取り囲んでいて、真ん中に15m四方くらいのどーんとでっかい長方形の石造りの生け簀がある。
ここにエビがいるんですって!と、テンションが上がる私。
どれどれ、と覗くと、いるいる。 結構大きなハサミのついたエビ。生け簀の端から端までを、ざーっと洗面器ですくおうとしたら、3mくらいのところで、既にたくさんすくいすぎてこぼれちゃうくらい沢山いた。
アルコール度数が少し高めのシンハービールを、氷を入れたグラスに入れて、飲みながら私たちはエビを釣っていった。
彼も初めてなのか、餌をまじまじと見つめて、釣り針につけて糸を垂らす。
浮きが沈んだ後、慎重に彼が引き上げるとエビが釣れた。
同じように私も釣れたので、二人で競争しながら、6匹のエビを釣って、料理してもらっている間に、テーブル席に戻った私たち。
ニノは暑いねと言いながら、何度もハンカチで汗を拭いていた。
私には風が吹くと心地よいくらいのちょうど良い気温だったんだけど。
塩焼きにしたエビが届くと、彼が少し照れながら、剥いて、と言うので、全部ぐる剥きにして、真ん中のお皿に並べて食べた。
九州男児ってこんな感じっていうのを体現したかったのかも知れない。
風が少し吹き始めると、前髪をくすぐるくらいの軽やかな風が、流れる度に周りの木々を揺らす。時折、ザーッと緑の揺れる音が、誰も居ない店内に響き渡る。 お客は私達しか居なかった。
「私ね、ずっと、あなたとこうしたかったんだと思う。」
心地よい静けさの中に酔いしれて、つい本音が出てしまった私。 しばらくの無言の後、私をまじまじと見つめながら、彼は言った。
「腕、太いね。」
ずーん・・・。知ってる。おい、ずいぶん直球で分かってる事言ってきたわね。せっかく気持ちいいな、と思ってたのに第一声がそれか。
「知ってるよ・・・。だって、3人も子育てしてみなさいよ!こんななるって!」
「ハハハハ。そうなの?」
「金曜日の帰りとかに主人が遅い時、あたしすごい事になってんだよ?電動自転車の前の席に次男、後ろの席に長男、3人目をおんぶして、両サイドに荷物、荷物、前かごにも荷物、で、自分のバッグを長男に抱えさせて、さー、いくぞー、ってあたし1人で運転して帰ってんだからね?そりゃこんな腕にもなるわ!」(※交通違反です)
「はははは、すごいね。」
「もーぅ、何で私いつの間にか、こんな肝っ玉になっちゃったんだろう・・・。こうなるハズじゃ無かったのにぃ・・・。」
彼は、何を思っていたんだろう、色々とその後、話しかけて来たんだけど、私、もうこれ以上、落ち込む事言われるよりも、この空間の気持ちよさに浸っていたかった。
***
彼女の相槌が、だんだん適当でいい加減になってきたので、話聞いてなさそう、って思った俺。
ひと通り料理を食べて、最後にもう一度エビを釣る事にした。
彼女を見ると、餌をつけた釣り竿を垂らしたまま、ビールを飲みながらたばこを吸っている。
「全然釣る気無いでしょ。」
「うん。もうね、無理。疲れたもん。私、釣り向かない。3匹釣れたからもう満足。」
俺は、そう言う彼女からの視線を感じながら、ひたすらエビを釣っていた。
これは、頼りにされている・・・。
さっき俺が、エビを剥いてもらうという甘えた分以上に、俺に甘えてくる彼女。
なんだか、お互いの距離感が縮まった気がした。 昔から、こうだっただろうか。 いや、20年経って、やっとこの距離感になったのかも知れない。
彼女が生け簀を眺めていると、お店の人が網で適時エビを拾っているのを見て、あれ何してるの?と聞いてきた。
死んでるエビを拾ってるんだよ、と教えると、この狭い生け簀だけしか知らずに死んでいくエビもいれば、イキが良くて世界に飛び出しちゃうあなたみたいなエビもいるんだろね、って、話をされた。
「最後、1匹くらい釣りなよ。」
俺がそう言うと、彼女が突然やる気を出して言った。
「よし!やってやる!イキの良い奴釣ってやるぞー!」
***
(あなたみたいなね)
で、しばらく、集中して本気で釣ろうと思ってると来るものなんですね。
でも、おっ、来た来た!よっしゃこれ釣れるぞー、ほら見ろー!どーだー!! って、引き上げたら、空だった。
ぬぬぬー、くっそー、悔しいー!期待していただけに必要以上に悔しいー!!
私は再度、釣り糸を垂らした。しばしの沈黙。
すると、今度こそ行けそうな気がする。よーし、引き上げようかと思ったら、彼が、
「もう少し待って。ほら、浮きがまだ沈むから沈み終わってから。」
うん、と頷き、引き上げたい気持ちを我慢して待つ。浮きの先端が完全に水面の下に沈んで降りていった。
・・・・、よし、もう、良いんじゃない?
「もう、いいよね?」
「うん、いいよ。」
えーい!と上に持ち上げると、すごく重い。こんなにしなった釣り竿でこんな重いの釣って折れないの?って不安になるほどに。
エビが水面を出ると、急に反動で私の身体がのけぞる。
うわーぉ、すんごいビチビチ跳ねている。すんごいイキの良いのが釣れた。ニノみたいな。
私が、最後の1匹を釣り上げたところで、後半の6匹を釣り終わって、本日のエビの収穫は終了。 それを、春雨の炒め物と、卵と野菜の炒め物に料理して貰って、食べながら、また色々話をした。
私の会社の化粧品のパンフレットをこの時渡して、仕事の話もした。
料理はすごく美味しかったのに、食欲があまり無い私は、たくさん食べられなくてすごく残念だった。次こそは絶対たくさん食べるんだから。トムヤムクン食べるの忘れてたし・・・。
その後、話した事は、本当に色々。とにかく、くだらない事から、深い事まで、色々話をしたと思う。 まるで20年間の空白を埋めるように。
そして、私達は、釣り堀を後にした。
外は夕焼けで、少し薄暗くなり始めていた。
第9話に続く
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