フェミニズム小説とはなにかを考えるー松田青子著『女が死ぬ』を読んで
松田青子著 中公文庫 2021年出版
松田青子三冊目の読書感想文。
松田青子の短編集。一行で終わる詩的な作品もあり、比較的にとても短めな作品が多い。
松田青子の小説をフェミニズム小説というのはなんか違う気がする、と以前書いたが、この本読んでたら、そういわれるのは分かる気がした。女性であることで社会にこんな不当な扱いを受けているという事実がなければ、こんなおもしろい女性のお話は書けない。というのも、私がひどく共感する女性が就活する話や、仕事にまつわる話は、こんないわゆる「女性向けの仕事」というものを用意している会社があまりにも多いからこういった話になるわけで、そして、私も、そうそうその通り、と読めるという事実を改めて思った。「履歴書」という短篇なんて、まさにそういう女性たくさんいるだろうしと思ったし、一番面白かった「ミソジニー解体ショー」という作品もそうだ。でもいわゆるアグレッシブなフェミニズム小説に落とし込まれてないのは、それは、どこかファンタスティックだからだ。現実的な問題を扱っている割には、女性は嘆いてないし、怒ってもないし、それでも前向きに生きている。そして、比喩的な表現が多いのも、その一因だと思う。モノ、ないし事象がメタファーを含んだ作品が多いように思う。人以外が主人公になる作品も多い。どこか詩的な要素があって、それも現代に深く根差している。ところどころに出てくる商品名だったり固有名がとても生きていて、若者の支持を得るのに役を買ってる。
ある作品を「フェミニズム小説」と括ってしまうことはなにか違うことのように私は確かに思っている。宮台真司が言うようにクソフェミ的な要素は少なからずこの社会にはびこっていると思うし、そう考えると小説を見る眼が狭まってしまうから、文学にそういう領域を作るのはあまりよくないように思う。けど、松田青子の作品を読んでると、現実問題があまりにもよく観察して書かれているので、こういう社会があるからこういう話が書ける、と思う。良い意味で?悪い意味で?どっちなんだろう。将来、というか私が死んだ後で地球規模で考えたら、こういう社会がかつてあったらしいけど、古いねえ、女性はそんなに卑下されてたんかい、と思いを馳せるような社会にいつかなると思っているので、フェミニズム小説なる括りはなくなり、いつか歴史的に解釈する日が来るんじゃないか、と楽観的に思っている。
それでもね、こういう女性が描かれた小説は好きですよ。やはり、自分の興味あることにフィットしてる感がすごくある。