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文学の括りって?ーーチョン・セラン著『屋上で会いましょう』を読んで
チョン・セラン著 すんみ訳 亜紀書房 2020年出版
チョン・セランさんのシリーズになっている本を他二冊読んでいたので、完読しようと思ってこの本も読んでみた。
韓国の若者のしゃべり口調などで書かれた話や、女性の仲間同士の交流が描かれている話、歴史的事実をちょっと参考にして作った話などが収録された短編集。
チョン・セランさんの小説は私にとって、いくら読んでも飽きない作品である。『保健室のアン・ウンニョン先生』を読んだときは、SFはいっている、という感じで、なんかその扱いに違和感を感じたが、この本はそこまでSFって感じではなかった。でも、訳者の解説読んでたら、セランさんは、SF小説って分野別に分けられている部門に応募したら、出版されたという小説家らしい。訳者のすんみさんの解説読んでいたら、いままで、なんで、SF小説って言われてんだろ、とか思っていたことの謎が解けた。自らジャンル分けされることで、デビューが可能になったらしい。確かに、これらの作品を純文学としてあつかうのは、抵抗があったのかな、とか隣国の文学事情にも思いが馳せてしまった。まあ、なにが純文学なのかと問われたら私も疑問に思うが、そういう括りはなくなりそうでなくならないように思う。
「なんとなく結婚って不動産で維持されてる気がしたの。手に負えない金額の家を買って、借金を一緒に返すことで結婚生活が続いていただけじゃないかと。だからしばらくは動産だけで暮らしてみたいと思う。」p. 264
というセリフがあったが、大きなことはいってないが、女性が離婚をどうとらえるのか、なんでもない言葉で表現されていると思った。
キャンピングカーを購入して「離婚セール」をするのだが、女性の友達関係がキラキラしてていいな、と思った。韓国の女性同士のノリってこんな感じなんだろうか。
こういう日常生活の女性の様子が書かれている小説っていいな、と思った。そういうのは、韓国小説を読んでて分かったことである。日本の女性作家より小説にそういうことを盛り込んでみようという問題意識が高いように思う。だけど、小説というものがそうさせるのかもしれないとも思う。