藤野が描き続ける理由は呪いである ~『ルックバック』感想~
ちょっと前に映画、ルックバックを見てきました。
年取ってから涙もろくなった実感はあったのですが、まさかこの映画で号泣するとは思ってもいませんでした。
ええ、もう一緒に見た妻がドン引きするくらの号泣ですよ。
ちなみに妻も冒頭の方で既に泣いていたのでおあいこです。
とにかく素晴らしい映画、『ルックバック』。
万人に刺さるかと言えば、そうではなさそうと思います。
しかし、とにかく刺さる人には刺さるし、刺さらなくても映画の完成度が高いのが素晴らしい映画であります。
整わないアニメ
この映画の良さの一つは、「ただきれいではない」というとこでしょう。
昨今、ufotableやMAPPAを代表とする日本のトップアニメーションは絵や動きが綺麗なことが多いです。
ルックバックは逆に、崩したりやパースの歪みが使われ、躍動感のある仕上がりになっています。
こちらの記事でもあるように、それがこの映画を「動いている漫画」のように感じさせます。
この雰囲気は、ただマンガをアニメするのではなく、マンガを動かしているともいえますし、藤野や京本の感情をよりよく引き出しているのです。
雨の中を藤野がスキップして帰るシーンはとくにこの映画の「アニメとしての表現力」が十二分に引き出されています。
違和感ある声
声優もまた、俳優を採用していることの妙技が光ります。
今の時代は声優は専門職となり、声を当てるときにはたいてい声優がするようになりました。俳優やタレントが当てるときは、何らかの理由がある時が多いでしょうね。
しかし、声優も俳優も演じるという仕事では同じではありますが、やはりその質には異なるものがあります。
恐らく、「声を演じる」のと「身体を演じる」の違いだと思うのですが、その異質さがアニメでは重要です。
声優の場合はどちらかと言えば、違和感の少なさと言いましょうか。聞いていてすんなり耳に入るのです。
俳優が声当てするとき、そこにはちょっと違和感があります。その違和感が現実味を引き出しているのです。
違和感が現実味を帯びるというのは妙ではありますが、しかし、現実自体が矛盾を抱えているのなら、そのわずかな違和感こそ映画や作品をぐっと現実に近づけ、我々の中に浸透させられるのです。
ルックバックでは、まさにこの「整っていないアニメ」と「違和感ある現実の声」が、物語を現実に近づけ、見る者の中へ強い感情を搔き立てているのです。
なぜ、藤野はまた描くのか
フィクションであるはずの映画が強い現実を伴って目の前に立ち上がるとき、『ルックバック』の物語が強く私たちの中にある、過去の記憶を思い起こさせるのです。
それは、挫折の記憶です。
藤野が京本に画力で負けたとき、彼女は筆を置いた。
狭い世界の中で――それは家族の中であり、幼稚園の中であり、学校の中であり、サークルの中である――勝ち誇っていたはずが、実は外には自分より優れている人間がいると知った時、人は挫折します。
挫折し、努力して、それでもなお届かぬとして、諦める。
きっと多くの人が経験してきたありふれたものだろう。
このフィクションの中で描かれた現実だからこそ、多くの人の胸に染み入るのだと思う。
それでも藤野が諦めなかったのは京本の言葉があったから。「あなたのファンです!」と言われたから。
上手い、下手の一次元が、好き嫌いの二次元に、そして自分と他者の三次元に広がっていくとき、人はまた筆を取るのだ。
優劣ではなく、誰かに認められる、認められたからまた筆を取るのだ。
――と言いたいところだが、私はそうではないと思う。
この物語は、「創作って、人に認められることってうれしいから、頑張れるよね」という、そんな優しい話ではないのだ。
物語の後半、藤野と京本が出会わなかった「if」の展開が描かれている。
そこでは京本に認められていないはずの藤野が、マンガをまた描き始めているのだ。
京本に認められなくても、なぜ藤野はまたマンガを描くのだろうか。
自分を認めたりする他者が居なかったのに、彼女が筆を取る理由は何なのだろうか。
この回答はきっと、様々な答えがあると思います。
それに対して私は、こう答えます。
「創作とは、祝福であり、呪いである」と。
創作という祝福と呪い
なんだかアビスに出てくるド外道が言いそうなセリフですが、あながち間違いではありません。
メイド・イン・アビスで深淵を目指す主人公たちの理由は、確かに最初は「母を探したい」といった理由だった。だが、それはやがて「深淵に進みたい」という理由に上書きされてしまう。
つまるところ、どんな理由があっても、自分の中の「憧れ」が原動力になり、諦める理由はなく、諦めなくなるのです。
進み続けることはある種の呪いでもあります。
一度進む喜びを知れば、それがどんなに苦しくても進まない選択肢はないのです。
創作はそんな呪いの側面を持っています。
書き続けること、描き続けること、創り続けること。
これらは呪いであります。
一度でも創作にしっかりと手を伸ばしてしまえば、「続ける」選択肢が自分の中にでき、それを辞めてしまった時には「続けなかった」自分という烙印が押されてしまうのです。
呪術廻戦の虎杖が語る「殺人の選択肢」ともいえます。
一度でも書くことを、描くことを、創ることを知ってしまえば、自分の中に選択肢ができ上ってしまい、その後の人生には常に創作を「選ばなかった」ことがついて回るのです。
創作は、深く魂にその存在を刻み込むのです。
だからこそ、藤野はたとえ京本が居なくても、また描き始める。
創作は呪いでもあり、祝福でもある。
創作はつらい。苦しい。
創作に携わった人たちなら、まったく苦しみがないということはないでしょう。
苦しく辛い、なんでこんな苦行をしているんだと自問しながら、それでも創作することは辞められない。狂った時計のように、手を動かし頭で創り続ける。
その果てに出てきたモノたちの、なんと輝かしいことだろうか。
この喜び、祝福を知るのは、創作の呪いを知る人だけだ。
何かを創ることは引力を持つ。それは他者に対してもだけれど、自分自身に対してもだ。
複雑怪奇な創作という輪廻の輪から抜け出せない。そんな重力を持っている。
どんなに苦しくても、辛くても、大切な友人が死んでしまっても。
創作の輪廻にいるのなら、涙を拭き、描き続けなければならない。
いや、描き続けたいのだ。
『ルックバック』は創作する全ての人たちに向けた勇気の賛歌だ。
みんなに読んでもらえる楽しさ。
だれかに認められる喜び。
挫折する苦しみ。
上手くいかないつらさ。
別れの絶望。
それでも、そんなすべてを”思い出し(Look Buck)”ながらも、”怒りで振り返らず(Don't Look Buck in Anger)”に、ただ、描き続ける背中を眺めながら(Look Buck)、そんな背景でこの映画はエンドロールを迎え、朝日を迎える。
創作する者に明けない夜はない。しかし夜を明かすには描き続けるしかないのだ。
最後のエンドロール、よく学生時代に徹夜して創作したことを思い出した。
夜が白むまで原稿に向かい続け、部屋が明るくなってようやく朝に気付く。
私はそんな、かつての自分を思い出していました。
書き続けるしか、私には選べる選択肢がない。
そんな呪いとも、祝福ともいえる創作への感情を、この映画は思い出させ(look buck)てくれました。
『ルックバック』は映画も原作もまごうことなき名作でした。
映画はまさに、原作と相補的になって、アニメ映画史に名を刻む傑作だと私は思います。
まだまだ劇場公開しているみたいですので、ぜひ足を運んでください。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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