マハーシ式のヴィパッサナー瞑想
「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を転載します。
ミャンマーのマハーシ・サヤドーが一般人でも行いやすいシンプルなヴィパッサナー瞑想(観の瞑想)の指導を広めたことで、マハーシ流(マハーシ・システム、マハーシ式)や、それに近いヴィパッサナー瞑想が、世界的に広がりつつあります。
ヴィパッサナー瞑想は英語では「マインドフルネス・メディテーション」あるいは「インサイト・メディテーション」と呼ばれます。
マハーシ・サヤドウ
マハーシ・サヤドウは1904年、中北ミャンマー生まれました。
ミングン・サヤドーの「四念処」をもとにしたヴィパッサナー瞑想(観)の指導を受け、1941年からは在家出家を問わずヴィパッサナー瞑想の指導を始めました。
1949年には、ウ・ヌ主相とブッダ・サーサナ協会により、ラングーンのタタナ・イェイクタ道場に招かれます。
1956年にラングーンで行われた第6回世界仏教会議では、首席質問者役を担いました。
現在、ミャンマーには数百箇所の支部道場があり、海外にも数十箇所があります。
日本では、アルボムッレ・スマナサーラ氏の活動で有名なテーラワーダ仏教協会が、マハーシ流に近い形での瞑想指導を行っています。
マハーシ流
マハーシ流の最大の特徴は、
1 最初からヴィパッサナー(観)を行い、サマタ(止)を行わない
2 アビダンマの教義に基づいて、すべての法を順に識別していくようなヴィパッサナーを行わない
の2点でしょう。
そのため、上座部の伝統派からは批判がなされています。
しかし、私は、釈迦が行っていた瞑想は、マハーシ流のようなシンプルな瞑想ではなかったかと想像します。
一般に本格的にマハーシ流の瞑想に取り組む場合には、1、2ケ月、集中的に行います。
主に、座っての瞑想と、歩行による瞑想を順に行います。
座っての瞑想では、呼吸による腹部の動きに集中します。
そして、集中しているものを言葉に表現します。
「ふくらんだ、ふくらんだ」、「へこんだ、へこんだ」…という具合にです。
これを「ラベリング」と呼びます。
しかし、集中するのはあくまでも腹部の動きなどの現実であって、言葉に集中してはいけません。
意識のかけ方は、ラベリング5%、対象95%程度なのです。
もし、他のものに意識が移った場合は、それを自覚・観察、ラベリングして、また、腹部の動きに集中を戻します。
他のものに意識が移ることを避ける必要はありません。
意識に上ってきたものを自覚し、ラベリングすればよいのです。
しかし、無自覚に雑念に留まり続けることはいけません。
「ラベリング」は細かい表現にしません。
例えば、晩御飯のことを考えてしまった場合、ラベリングは「晩御飯のことを考えている」ではなく、「考えている」とか「雑念」です。
このようにして、ひたすら自覚的な観察を続けます。
歩行の瞑想では、ゆっくり歩きながら、「持ち上げる」、「踏み出す」、「持ち上げる」、「踏み出す」…とラベリングして自覚します。
同様に、もし、他のものに意識が移った場合は、それを自覚・観察、ラベリングして、また、腹部の動きに集中を戻します。
次に、「持ち上げる」、「運ぶ」、「踏み出す」と、自覚を細かくしていきます。
最終的には、座る時、歩く時だけではなく、一日中、自覚を続けるようにします。
マハーシ流では、「サマタ(止)」を行わずに「ヴィパッサナー(観)」から始めます。
ヴィパッサナーを行うだけでも定の力が養われると考えます。
そして、近行定までが達成され、五蓋は取り除かれるので、阿羅漢にまでいけると考えます。
ヴィパッサナーには対象に対して瞬間だけのサマディ=瞬間定(刹那定)が必要だと言います。
呼吸に合わせて腹部の動きを意識することは、原始仏典や「清浄道論」の「安般念」の方法ではありません。
マハーシ流では、呼吸そのものではなく、現実のお腹の動きに集中しながら、随時、他の事柄にも自覚を移します。
マハーシ流では、これを「安般念」として捉えていませんし、あえて腹部の動きを対象にしています。
なぜなら、「清浄道論」が「安般念」を「サマタ(止)」に分類しているからです。
また、マハーシ流では、細かいアビダンマの教義に従ってヴィパッサナー瞑想を行いません。
つまり、原始仏典や「清浄道論」のように、順に法を識別したり、○○行相といった体系的な観察はしないのです。
逆に、教説を考察するだけで、知ったつもりになりがちなヴィパッサナーを批判します。
重要なのは、実際に生滅している現実を対象にして観察することであり、そのためにアビダルマの教説を意識する必要はないと考えます。
また、法を識別する必要はないようです。
例えば、歩いている時は「歩いている」と知るだけで、究極法としての名色を知る必要はないと言います。
そのため、伝統派からは、マハーシ流のヴィパッサナーは本当のヴィパッサナーではなく、単なる「正念正知」であるとの批判を受けています。
同様に、例えば、「清浄道論」では「度疑清浄」の段階では、過去や未来についての因果を知ろうとします。
しかし、マハーシ流では、ヴィパッサナーの対象は現在生じている法(内の法)だけであり、過去や未来の法(外の法)は推論によって考察するだけであり、知ることはできない、とします。
この点にも、マハーシ流の特徴がよく表れています。
しかし、マハーシ流は「清浄道論」を無視しているわけではありません。
「清浄道論」では「サマタ(止)」が「心清浄」の段階に相当します。
しかし、ヴィパッサナーを最初から行うマハーシ流では、初歩のヴィパッサナーが「心清浄」に当たります。
「見清浄」以降の段階の智に関しても、特別な観法やアビダンマの教説に沿った観察をすることなく、シンプルなヴィパッサナーのみで、順次、自然に達成されるとします。