折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化
「神秘主義思想史」に書いた文章を転載します。
このページでは、折口信夫が唯一完成させた小説「死者の書」と、戦後に主張した神道の宗教化、産霊神の一神教について取り上げます。
それは、折口が考えた、古代と未来をつなぎ、神道、仏教、キリスト教を総合しつつそれらを越える、普遍的な宗教とは何か、という問題です。
死者の書
「死者の書」は、折口が「釈迢空」名義で、完成させた唯一の小説です。
この小説は、1939(昭和14)年に連載され、その4年後に、構成を変えて第二稿として出版されました。
また、戦後の1948(昭和23)年頃に、続篇の草稿が執筆されました。
ただ、折口の草稿には「死者の書」とだけあり、「続篇」とは書かれていません。
続篇の草稿が書かれたのは、ちょうど、折口が、神道宗教化をテーマにした講演を行っていた頃です。
「死者の書」には、折口自身の宗教観、そして、彼の日本の宗教に関する考え方が表れています。
そして、その内容は、折口が神道宗教化として、神道の新しい方向性として考えていたものとつながっているはずです。
「死者の書」は、古代的な神祇信仰が終わり、仏教(阿弥陀浄土信仰)の時代へと移行する8世紀半ばが舞台です。
この小説では、この頃の日本人の宗教心の変容を描いています。
主人公は、藤原南家の豊成の娘の郎女(中将姫)です。
彼女は、氏神の巫女(神の妻)となるべく育てられましたが、それにあきたらず、阿弥陀浄土の信仰にも傾倒するようになりました。
そして、太陽が沈む西方の二上山越えに阿弥陀仏を幻視するようになり、二上山とその麓の当麻寺まで出かけます。
郎女は、巫女でもあったので、それは恋(魂乞い)の要素を持つものでもありました。
ですがその裏側には、50年ほど前に謀反を疑われて自害に追い込まれ、二上山の山頂近くに正しい葬儀なく埋葬された滋賀津彦(大津皇子)が、復活して、郎女を魂乞う行為がありました。
滋賀津彦は、生前の最期に見た鎌足の娘の耳面刀自に思いを寄せて、この世に執心を残し、彼女に似た同氏族の子孫である郎女に魂乞いし、そのもとに訪れようとしていました。
滋賀津彦は、天若日子や隼別に重ねられて、反逆者として描かれます。
ということは、怨霊でもあり、郎女は巫女として、彼を鎮魂することが望まれます。
郎女は、蓮の糸で布を織り、そこに幻視した阿弥陀仏の姿を描きました。
彼女が描いたのは、阿弥陀仏だけでしたが、それを見たお付きの刀自達には、数千の地涌の菩薩の姿が現れました(浄土の光景を描いた当麻曼荼羅となりました)。
阿弥陀仏と菩薩達が来迎して、滋賀津彦の魂は救済されたのでしょうか。
郎女が、没する太陽を眺め、阿弥陀仏を幻視したのは、「日想観」の一種です。
「日想観」は、「観無量寿経」で説かれる観相法の第一のもので、日没に浄土を観想する方法です。
折口が若い頃に親しんだ四天王寺や天王寺の夕陽丘には、「日想観」を行って往生をしようとする習慣がありました。
一方、「死者の書」では、二上山麓の当麻の女達が、彼岸に太陽を追って歩く「野遊び」という古代的な風習の様子も書かれています。
つまり、「死者の書」では、古代的な風習、魂請い、鎮魂が、仏教的な阿弥陀浄土の信仰の観想に変換される様子が描かれています。
実は、折口が古代学として日本の古代に見ようとしていたものは、日本的なものではなく、普遍的なものなのでした。
それだからでしょうか、「死者の書」は、世界の宗教とつなげられています。
「死者の書」というタイトルは、エジプトの「死者の書」から来たものです。
出版された折口の「死者の書」には、山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅に加えて、エジプト神話のオシリス復活の絵が添えられていました。
折口の「死者の書」には、郎女が蓮華の中から阿弥陀仏の姿が現れるヴィジョンを見る場面がありますが、ここにはオシリスの復活と共通する要素があります。
つまり、郎女による滋賀津彦の救済は、イシスによるオシリスの復活と重ねられています。
このように、「死者の書」には、日本の古代的な信仰が持つ普遍的な宗教心の変容が描かれています。
死者の書・続篇
「死者の書・続編」は、平安時代末期の高野山が舞台となり、郎女と同じ藤原氏の左大臣頼長を主人公とする物語です。
高野山は二上山と同様に死者の山です。
それに、頼長は、四天王寺の日想院から高野山に赴いたり、高野山から二上山麓の当麻寺に行ったりするなど、「死者の書」の舞台とも結び付けられています。
続篇は、頼長が空海を復活させる(招魂する)物語として構想されたのかもしれませんが、未完のため、その部分は描かれていません。
藤原頼長は、高野山の僧から、入定した空海は今でも髪が伸びていて、二十年に一度、その頭髪を切る儀式が行われているという話を聞きます。
また、「日京卜」という珍しい占いの法があるという話も。
高野の谷の一つに、空海が唐より連れ帰った鬼神の子孫とされ、「苅堂の聖」と呼ばれる下級の法師達が住んでいます。
彼らが、空海の頭髪を切る儀式の前日に、落日に向けて十文字の形に組んだ枝を投げると、そこに空海の姿が現れるので、これよって髪の長さを占うのが「日京卜」です。
頼長は、これが占いではなく、「招魂の法」であると理解します。
これは、ペルシャ人によって西域から長安に伝わった景教(ネストリウス派キリスト教)の招魂術であり、これによってキリストの姿を現して礼拝するのです。
つまり、「日京卜」の「日京」は「景教」の「景」なのです。
そして、「日」は、景教が日の神の信仰と習合していることを予期させます。
「死者の書」では、普遍性を持つ古代的なものの、新しい形への変容が描かれました。
そのテーマは続篇でも継承されているはずです。
真言密教の大日如来は太陽の仏ですし、ネストリウス派キリスト教はペルシャの太陽神信仰と習合している可能性もありますから、太陽信仰というテーマも同じです。
入定した空海と、ネストリウス派の招魂法が登場するので、死と復活というテーマも同じです。
では、折口は、なぜ、続篇を描こうとしたのでしょうか?
「死者の書」の主人公が郎女という女性であるのに対して、続篇の頼長は、学識の高い男色家です。
また、「死者の書」が参照したエジプトの宗教は、イシスという女神を重視する宗教ですが、続篇のネストリウス派キリスト教は、聖母マリアという人間の女性の神性を否定する派です。
つまり、女性原理のテーマが、男性原理、あるいは、無性原理というテーマに変わっています。
また、「死者の書」が扱う阿弥陀信仰は一神教的傾向が高い宗教ですが、続篇が扱うキリスト教は一神教であり、ネストリウス派は正統派以上に一神教的な異端です。
つまり、一神教というテーマが明確化されています。
藤無染と新仏教
「死者の書」の背景を推測してみましょう。
折口が、1905(明治38)年に国学院大学に入学して上京した時、藤無染らのもとに同居しました。
藤無染は年上の僧侶で、恋人だったのではないかと推測されている人物です。
藤無染は、浄土真宗の僧侶でしたが、「新仏教」の運動の中にいました。
折口は、藤無染の思想や、彼の背景となった当時の「新仏教」運動、仏教改革運動に影響を受けたのではないかと推測されます。
「新仏教」は、仏教とキリスト教が共通の思想を持っているとして、総合的な新しい仏教を生み出そうとする傾向を持っていました。
その背景には、欧米で同様の主張をしていた思想家達の影響がありました。
鈴木大拙のアメリカの師であるポール・ケーラスもその一人であり、ケーラスやスウェデンボルグを翻訳した鈴木も、「新仏教」にとっては大きな存在でした。
また、この運動の背景の一つには、ブラバツキー夫人の神智学もありました。
藤無染は、真宗が海外の思想を学ぶために設立した西本願寺の「文学寮」で学びましたが、「文学寮」では神智学も研究されていました。
藤無染は、仏陀とキリストの伝記の共通する部分を抜き出して並べた「二聖の福音」(明治38)という書を出版しています。
彼は、この書で、ケ―ラスやアーサー・リリーの書を参考文献としてあげています。
リリーは、神智学や、そのイギリス支部長でキリスト教神秘主義者だったアンナ・キングスフォードの影響を受けた人物です。
ですが、「新仏教」を生む母体になった真宗は、やがてその運動を弾圧する側に回りました。
折口には、藤無染が、真宗などの旧仏教に対する反逆者と映っていたでしょう。
また、藤無染は、早くに亡くなりました。
ですから、藤無染は「死者の書」の滋賀津彦に重なる人物です。
つまり、「死者の書」の折口個人の背景には、折口が藤無染を復活・供養するというテーマがあるのです。
そして、新しい宗教を体現した郎女と、新しい神道を目指した折口、新しい仏教を創造した空海と、新しい仏教を目指した藤無染は、重なります。
また、折口は、メレシコーフスキーの「背教者じゆりあの」という書を絶賛していました。
この書は、ペルシャ由来の太陽神ミトラスを信仰した古代ローマの反キリスト皇帝のユリアヌスをテーマにしています。
そして、ギリシャ・ローマなどの古代の神々の復活や異教の神々を通して、キリスト教を蘇えらせることを主張しています。
つまり、太陽神を一つの焦点として、古代的多神教と一神教の統合がテーマになっています。
これは、「死者の書」のテーマとも重なります。
また、折口が読んだであろう文章に、佐伯好郎が「世界聖典外纂」に掲載した「景教」があります。
これは、正統派キリスト教とネストリウス派を対比し、その背景を、前者は地母神崇拝のエジプト神学を背景にしたアレキサンドリア派、後者はギリシャ哲学を継承したシリア派としています。
偶然かもしれませんが、これは「死者の書」とその続篇との対比に重なります。
鈴木大拙との対決
1948年、折口は、新仏教の導師でもあった鈴木大拙と、雑誌が企画した座談会「神道と仏教」で初めて会いました。
そして、ここで、極めて興味深い対話を行って、激烈に火花を散らしました。
ちなみに、鈴木は「日本的霊性」で、神道は霊性には触れていないとして切り捨てています。
折口は、この座談会で鈴木に、自分は真宗の家で育ったけれど、真宗には弱点があるように感じるが、真宗の弱点はどんなところにあると思うか、と問いました。
鈴木は、これに答えませんでした。
一方、鈴木は、神道には神の愛がない、神道が穢れを払うのは暴力的だが、仏教には穢れを受け入れる慈悲がある、と発言しました。
それに対して、折口は、出雲のスサノヲとオオクニヌシにおいては、暴力と苦しみが愛と喜びと一つになっていて、ここに神道の愛が存在すると応えました。
ちなみに、折口は、太陽信仰にこだわりと持っていながらも、アマテラスにはほとんど関心を示さず、スサノヲにこだわっていました。
折口の最後の詩集「近代悲傷集」も、スサノヲをモチーフに歌われています。
また、反逆者という点では原点となる存在であり、「死者の書」の「滋賀津彦」とも重なります。
(また、キリストを意識しつつ、贖罪神と愛の神としてのスサノヲを重視する点では、出口王仁三郎と共通していることが興味深いです。)
また、鈴木は、神道には教義の体系がなくていまだ宗教ではないと批判し、これまでの神道を破壊して新しい神道を作るべきではないかと発言しました。
ですが、実は、これは、折口が、当時、すでに主張していたことと同じでした。
神道の宗教化、産霊神の一神教
折口は、太平洋戦争の敗戦を、国家神道となった神道の神の、キリスト教に対する敗北であると捉えました。
明治以降の神社神道には、キリスト教徒が持っていたような情熱がなかったと。
そして、戦後の1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけての、「神道の友人よ」、「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」という講演や新聞への執筆で、神道の宗教化を主張しました。
折口は、神道には体系化された教義がなく、特に国家神道は国民道徳と結び付けられる一方、宗教的な罪障観がないことが問題であると考えました。
そのため、例えば、特攻隊を美化するようなことになってしまったと考えたのでしょう。
また、折口は、神道は多神教と考えられているけれど、「事実において日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」(神道の新しい方向)と書いています。
この一神教化を考える時、折口は、戦争末期になって、神道家や官僚の中で、天照大神と天御中主神のどちらが上かという論争が起こったことを取り上げます。
そして、それが現世的な争いに過ぎなかったので、神々に背かれたのだと批判しました。
そして、折口は、本当に必要な神の実体というのは、「天照大神、或るは天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いている 一種の宗教的な或る性質」だと表現しました。
折口は、「霊性」という言葉を使っていませんが、この神の間に漂う流体的な神的実体というのは、「霊性」としか表現できないものでしょう。
折口は、それを「産霊神」であり、「宗教から自由なもの」であると言います。
「日本の信仰の中には…すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。それは、高皇産霊神、神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です」(同上)
「神道教は要するに、この高皇産霊神、神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。」(同上)
宗教化を掲げながら宗教から自由というのも不思議ですが、折口の目指す新しい神道は、「産霊神」を中心にした、超宗教であり、超一神教なのでしょう。
キリスト教も参考にしながら、「産霊神」を最高神として自身の神道を描くということであれば、平田篤胤の思想を継承しているとも言えます。
折口が、古事記の根源神である「天御中主神」を重視しなかったのは、「天御中主神」には信仰の内容としての実態がないからです。
それに比べて、高産霊神、神産霊神は職能がはっきり分かると考えました。
「産霊神」は、前のページで書いたように、物質な肉体に霊魂を与え、その物質や肉体を育て、霊魂を育てる神です。
折口が、「産霊神」を「宗教から自由なもの」と考えたのは、おそらく、「産霊神」が人格神ではなく、非人格的な創造力という性格しか持たないからでしょう。
「民族教より人類教へ」という講演タイトルにもあるように、折口が目指した「神道教」は、単に日本の新しい宗教ということではなく、人類にとっての普遍的な新しい宗教なのでしょう。
文化人類学では、ラッファエーレ・ペッタッツォーニやヴィルヘルム・シュミットが、原初的な文化に、すでに至高神を持つ一神教的な信仰が存在することを確認していました。
この「原始一神教」と呼ばれる信仰の至高神は、例えば、北米では「グレート・スピリット」と呼ばれます。
折口は、その神を「既存神」あるいは、「至上神」と表現します。
この神は、超越神である一方、マナ的な力と一体で、万物に内在する神という側面も持っていて、神々とも共存可能です。
折口の目指した「産霊神」を中心にした「神道教」は、そのような原始一神教を継承しながら、それを宗教化するものなのでしょう。
折口は、神道学では、その教義化の準備はほとんどできていると考えていました。
そして、後は、情熱を持った宗教家の出現こそが必要だと、それを期待しました。
欠けていた観点
最後に、当ブログとして、折口になかった観点を書きます。
折口は、古代の鎮魂法を研究しましたが、神道宗教化において、その行法化については考えませんでした。
例えば、平田篤胤は真言密教の行法を研究して久延彦祭式を創作しましたし、本田親徳や川面凡児は鎮魂法を行法化しましたが、折口にはそのような行法という観点がありませんでした。
また、折口は、ほとんど憑霊的側面から宗教を見ましたが、例えば、平田篤胤の幽界研究を含めて神仙道や、出口王仁三郎にもあったような、脱魂的側面(単なる遊離ではなく、意図的な幽界飛翔)については関心を示しませんでした。
これは折口が、古代日本の特徴として憑霊型の巫女を取り出したからですが、さらに狩猟的な古層には脱魂型の男巫もあったはずです。
日本の歴史の中ではその潮流は、神道以外、俗流神道、民間神道としてあったのではないかと思います。
それに、折口も参照して統合を考えていたはずのユダヤ・キリスト・イスラムの一神教の預言者は脱魂型ですから、どちらかと言えば、こちらに普遍性があります。
*主要参考文献
・折口信夫全集「神道宗教篇」
・折口信夫「死者の書」、「初稿・死者の書」、「死者の書・続篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」、「光の曼荼羅 日本文学論」
・中沢新一「古代から来た未来人 折口信夫」